会報 第2514回例会 2022年10月12日

第2514回例会 会報
2022年10月12日(水)

例会場:青葉台フォーラム / 時間:12:30~13:30

会長:高嶋淳二 / 幹事:平田恵介
司会:松尾伸治 副SAA / 点鐘:清水裕之 直前会長

≪発行 クラブ研修・広報・会報委員長:田邊雅子≫


卓話

米山月間にちなんで

權 進根 君 [米山奨学生・韓国]


ゲスト


權 進根 君
[米山奨学生・韓国]

ビジター


該当者無し

会員誕生祝


該当者無し


 

斉唱

『我等の生業』

 

紹介・挨拶・お祝い・表彰等

ゲスト紹介

權進根 君
[米山奨学生・韓国]

奨学金授与

 

ビジター紹介

該当者無し

 

 

会員誕生祝

該当者無し

 

 

パートナー誕生祝

該当者無し

 

会長報告

清水裕之 直前会長

本日、高嶋会長欠席のため事前にお預かりした原稿を代読させていただきます。


会長報告:「第25回神奈川県ロータリークラブ親睦チャリティー野球大会」報告

去る10月5日(水)第25回神奈川県ロータリークラブ親睦チャリティー野球大会が、伊勢原ロータリークラブ主管により開催されました。
朝9時00分にいせはらサンシャイン・スタジアムにて、伊勢原ロータリークラブの移動例会です。
私たちはメーキャップ。
開会式では、第2780地区の役員の方々の挨拶もありました。
その後、試合前の写真撮影が行われました。

大会の参加チームは、伊勢原RC始め、藤沢湘南、海老名欅、厚木県央、茅ヶ崎湘南、本厚木の各クラブと侍2590の全7チームでした。

「侍2590」とは、当横浜緑ロータリークラブ野球同好会のメンバー単独では成り立たないため、川崎大師、百合ヶ丘、横浜あざみと当クラブの4クラブ合同チームです。

7チームは、「いせはらサンシャイン・スタジアム」と「厚木市営 玉野川球場」の2会場に分かれ、曇り空の中熱戦を繰り広げました。終わり間際に少し雨に降られましたが、無事全試合が最後まで行われました。

侍2590は、第一試合の1回の表、大量7点を取っての好スタートを切ました。
が、年配者も多く、2試合で2敗に終わりました。

試合後、厚木市飯山にある「元湯旅館」にて、閉会式と懇親会が模様されました。

侍2590からは、「好プレー賞」(これは、各試合で対戦相手のチームから選出しあうものです)が2名も出ました。
野球は一人では勝てないチームスポーツなんだな、という実感です。

懇親会では、先ずは、各チームの紹介タイムがあり、各クラブの様子も知り合えた感がありました。
アトラクションでは、当クラブ北原会員のマジックが披露され、大変盛り上がっていました。

地区を超えた親睦とチャリティーの会として来年も開催される事が発表され会は終了です。
来年の主管クラブは茅ヶ崎湘南RCです。
案内を待つ事としましょう。

最後に、当クラブについてですが、来年度は若手会員の方も是非参加してみませんか。

 

幹事報告

平田恵介 幹事

 

委員会報告/会員報告等

地区職業奉仕委員会

齊藤清紀 委員

 

会員報告

舟橋金之介 会員

米山カウンセラー研修会報告

(代理) 舟橋金之介

1.日時;2022年10月5日(水) 15:00~17:00
2.場所;横浜駅 ホテルプラム 2階
3.資料;プログラム、2022-23豆辞典、ハンドブック(各自持参)

講師の方々のお話から特に大切と感じた点を下記列挙します。

  1. クラブ・地区との交流、家族ぐるみの付き合い等、奨学生と積極的にコミュニケーションをとることが最も大切。また、複数の講師の方が、「我々が学生さんから学ぶことも多い。」、「卒業してからも見守ることが大切。」と同様に話しておられました。
  2. 奨学金を毎月例会の場でお渡ししているのは、少しでもクラブの雰囲気に馴染み、友好を深めてもらう意味がある。
    コミュニケーションをとるために、奨学生には地区で決められた活動に必ず出席してもらうこと(確約書に記載)。また、ロータリアンも奨学生を一人にしない様、必ず代理を立ててでも誰かが必ず出席する様徹底する事。
  3. 現役カウンセラーの経験談;
    • べトナム出身の二人の奨学生を会わせた所、どうもいつも一人の時と様子が違っていた。彼らは1人は北、もう一人は南の出身で、ベトナム戦争時代は敵同士であったことがわかった。
      →「100人の奨学生には100人の歴史がある事を失敗から学んだ。」
    • 「コロナ禍真っただ中で奨学生を受け入れたが、コミュニケーションがなかなか取れなかったことが悔やまれる。前回の反省点を踏まえ、現在リベンジ中。」
  4. 立派に平和の懸け橋になっている学友の紹介。
    • 周順圭さん(中国)・・シリコンバレーでハイテク企業を支援するエンジェル投資家。約7,000万円寄付。
    • デルゲルマー・アルザフグイさん(モンゴル)・・
      モンゴル外務省アジア太平洋局の日本担当書記官。現在次長。
  5. 奨学生共通の課題として危機管理の徹底
    自然災害、健康管理、重大事件、重大事故の発生時には、72時間以内に奨学会・危機管理委員会に報告する。

今年度、当クラブではグォン・ジングン君をお預かりしていますが、日本と世界との平和の懸け橋になる人材を育てる奨学会事業は、我々ロータリアンと奨学生が、お互い国際理解を深める貴重な機会であると改めて痛感しました。

 

出席報告

松尾伸治 出席副委員長

今回出席状況
会員情報 在籍会員 出席 MU済 ビジター ゲスト
会員総数 24 16 2 0 1
(内 出席免除会員数) 5 2

 
ホームクラブ出席率 外部参加者
対象 会員数
(男/女)
出席率 正会員
出席
免除会員
出席
Make-up
会員
ビジター ゲスト
今回 24 (20/4) 85.71 % 14 2 2 0 1
前回補正後 24 (20/4) 81.82 % 10 2 6 0 1
前々回補正後 24 (20/4) 90.91 % 16 3 1 0 2
 

スマイルレポート

スマイル 15 件

ニコニコ

浅井優子 会員 クォン君、本日はようこそ。卓話 お願い致します。
内倉和子 会員 クォンさん、ようこそ。卓話よろしくお願い致します。
槍田祥一郎 会員 クォン ジングン君、ようこそいらっしゃいました。本日の卓話 よろしくお願いします。
大地哲郎 会員 權 進根君、本日の卓話 よろしくお願いします。
小八木隆男 会員 クォン ジングン君、ようこそ!卓話もよろしくお願いします。
齊藤清紀 会員 權 進根君、本日の卓話 宜しくお願い致します。先週、野球部の皆さん、おつかれ様でした。
齋藤光宏 会員 權 進根(クォン ジングン)君、こんにちは。本日の卓話 よろしくお願いします。
篠田正道 会員 クォンさん、いらっしゃい。ごゆっくりしていって下さい。
清水裕之 会員 クォン君 ようこそいらっしゃいました。本日の卓話 楽しみにしております。
田邊雅子 会員 クォン ジングン君、本日の卓話 楽しみにしています。
日向誓子 会員 クォン ジングン君、ようこそ。本日の卓話を楽しみにしております。
舟橋金之介 会員 クォン ジングン君 ようこそ。本日の卓話 楽しみにしております。
松尾伸治 会員 クォンさん、本日ようこそおいで下さいました。卓話よろしくお願いします。
武藤泰典 会員 權君、ようこそ、本日の卓話よろしくお願いいたします。
村松勇治 会員 クォン君、卓話よろしく。
 

卓話

米山月間にちなんで

權 進根 君
[米山奨学生・韓国]

こんにちは。
ロータリーみどり米山奨学生のクォン·ジングンです。

今日私が発表するテーマは、自己紹介です。
実は、今まで一度も私の過去を振り返る機会がありませんでした。
発表するにあたって、私が今までどのように成長してきたのかを改めて少しずつ整理しながら、振り返ることができました。

私は、1991年に韓国の慶尚南道の小さな都市であるジンジュという場所で生まれました。ジンジュは、釜山から車で1時間半〜2時間ほどのところにあります。
あまり有名な都市ではないため、まずはジンジュの紹介を少しさせていただきます。

まずジンジュは、海に近いエリアで、日本でもよく知られている「うなぎ」が有名な都市です。
日本ではタレと一緒に食べることが多いかもしれませんが、韓国のうなぎの食べ方が少し違うスタイルで、BBQのようにこのように焼いて食べることが主流です。
韓国人はニンニクが好きなので、サービスでついてくるニンニクと一緒に焼いて食べます。

また、ジンジュでは韓国を代表とする「灯籠祭り」と言われるフェスティバルが有名です。
この「灯籠祭り」は、毎年10月に私の生まれ育ったジンジュで行われ、花火大会も一緒に開催します。
このお祭りは市が直接運営するイベントで、この時期に多くの観光客がジンジュに来ます。 私も実際にこのお祭りに参加したこともありますが、小学校以前のためほとんど覚えていません。花火大会がある日に、両親と一緒に見に行った記憶が唯一残っています。
花火大会の記憶が残っているのは、多分幼い頃に大きな花火を見るのは初めてで、本当に不思議だったからだと思います。
当時花火を見た時の会話は少し覚えていて、 キラキラだね。綺麗だね。と両親に言っていた記憶があります。

次は小学生時代についてお話しします。
韓国は、日本と同じ教育課程を持っている国なので、8歳になって家から近い小学校に入学しました。
ここで7歳ではなく、8歳で小学生に入学することに違和感を感じる方がいるかもしれません。韓国では、他の国とは違い特殊な年齢の数え方があります。
お母さんのお腹にいる時から数えるため、生まれた時点で「1歳」になります。それ以降は誕生日とは関係なく、新年を迎えるたびに一斉に1歳増えていきます。
なので、私は7歳ではなく8歳の時に小学校に入学しました。

その後、私が小学校3~4年生くらいの時に。韓国ではインターネットカフェという文化が新しくできました。インターネットカフェは、数十台のパソコンが店に置いてあって、1時間あたりの利用料を払ってゲームができる場所です。
学校が終わった後に友達とインターネットカフェに行ってゲームをしているところを、お母さんに見つかってしまい、怒られた記憶があります。 今考えれば、その時何がそんなに面白かったのか分からないけど、親に怒られながらも友達とずっと通っていました。
お金がなかったり席が空いていない日は、知らない人がゲームをしている後ろで写真のように覗きながら待っていた記憶があります。
今のようにプライバシーが重要な時代ではなかったので、こういったことが出来たんだと思います。

また、実は、私の父が当時韓国のロータリークラブの会員でした。
そのため日本のロータリークラブや台湾のロータリークラブと国際文化交流活動をしたこともあります。
ロータリークラブのメンバーの子供たちと一緒に、日本や台湾を訪問して、その国のメンバーの家で1週間ほど滞在しながら文化を学ぶことができました。 反対に、台湾と日本のロータリークラブのメンバーも、韓国を訪問し、私の家で一緒に過ごした経験もあります。 この写真は、私がロータリークラブを通して日本の松江に行った時の写真です。
また、これは日本で初めて剣道を体験をした実際の写真です。そのほかにも、色んな文化財を見物した記憶があります。 今思うと、その時から私とロータリークラブの縁が始まっていたんだなと思います。

次は、中学生・高校生時代について話したいと思います。この写真は、当時の学校の時間割です。恐らくこれは、高校生の時のものかと思います。これを見ると分かるように、当時は月曜日から日曜日まで学校に行かなければなりませんでした。 また高校生の時には、夜間学習という制度がありました。 朝8時に学校に行き、昼と夜ご飯の両方を学校で食べて夕方22時まで学校で勉強をするというシステムです。 学校で給食センターを運営しているので、両親がお弁当を作ったりということはありません。
また、週末には、午前9時から午後5時まで学校に行って自習学習をしなければなりませんでした。 基本的には、すべての学生が参加しなければいけなくて、特別な理由がない限り休むことは出来ませんでした。 自習学習時間には、先生たちが交代で教室まで見に来て学生たちがちゃんと勉強しているのかを確認したりなどをしていました。
これは15年ほど前のことで、今の韓国では、夜間自習学習システムはなく私が学生時代よりもっと自由になったと聞いています。
前に、私の日本人の彼女に、日本の学生時代の話を聞いたときに、私の学生時代の経験とずいぶん違うなと感じました。 日本では、勉強だけではなくクラブ活動文化がよく定着していると聞いてとても羨ましかったです。

他の学生たちと同じように大学受験の勉強をしていましたが、成績が伸び悩み、大学進学に失敗してしまいました。その後、兵役に入隊しました。
韓国の兵役は、20代のうちに行かなければないけないのと、計21ヶ月の軍生活が義務付けられています。 現在は、兵役期間がさらに減って18ヶ月と聞いています。
また、 ランダムで兵役場所が決まります。家の近くではなく、韓国と北朝鮮の境界線である最前線に配属されることになり、慌てた記憶があります。 地図の黒い線が北朝鮮と韓国の境界線です。ここの 北朝鮮と近いところで、砲兵として勤務しました。
入隊すると、まずは4週間、基礎的な訓練を受けました。全く何も知らない状態から始まるため、最初の4週間は軍隊での挨拶の仕方・歩き方の教育を受けました。他にも、銃の使い方や手榴弾の扱い方など基礎的な訓練を行いました。
そして、残りの期間は、配属された部隊に移動することになります。
これは、私が実際に服務した、多連装砲兵大隊の写真です。 そこでの私の役職は、ロケットミサイルがどこに落ちるかを計算することでした。 難しそうに聞こえますが、実は公式があって、その公式に風の強さ、距離の角度などを代入して計算するだけでした。 最初の1年は下級者なので先輩隊員から怒られたりととても大変でしたが、残りの1年は私が上級者になるのでよく適応することができました。
ただ、私が兵役入隊中に最も緊張し、記憶に残ったのは、北朝鮮の最高統治者、金正日(キム·ジョンイル)総書記の死去でした。 ニュース速報が出て、休暇中の軍人たちも強制復帰が命令されました。 その当時、全軍が非常事態になり、3~4日程度は戦争準備態勢で本当に戦争が起きるのかという緊張感でいっぱいでした。 私たちの部隊も非常待機としてすべての車両と弾薬を貯蔵庫から取り出して、戦争が起きた時に備えて準備をしました。

私が除隊する3ヶ月ほど前に、私がしていた仕事を引き継ぐ新しい隊員が入ってきました。新しい隊員は、アメリカのニューヨーク大学に通う学生でした。 その友達を通じて留学生活でのいろんな話を聞きながら、私もアメリカ留学を通じて多くのことを学びたいと思うようになりました。彼から聞いた話がきっかけとなり、アメリカ留学を決意しました。この時が多分、僕の人生のターニングポイントだったと思います。
除隊後1年間は、ソウルで一人暮らしをしながら留学に向けて準備をしました。 英語を勉強して、ついにアメリカ留学の道に進むことになりました。

私の留学プランは、短期大学で単位を取得した後、大学に編入することでした。そのため、アメリカのカリフォルニアのロサンゼルスに行って、サンタモニカカレッジという2年制の短期大学に入学しました。ロサンゼルスに到着し、少し生活した時に感じたことは、思ったよりアジア人が多いことでした。 特に中国人が多く、韓国人、日本人、東南アジアの国々の学生がとても多かったです。 そしてそこの学校の最初の授業で今の彼女に会いました。
短期大学時代には、月に1回ボランティア活動も行いました。地域で行われるフェスティバルの運営のお手伝いや近くの海に行って落ちているゴミの清掃などもしました。

短期大学で2年間勉強をした後、編入試験に合格しUCLAに編入することが決まりました。
短期大学を6月に卒業し、UCLAの編入が9月だったので約3ヶ月ほど時間がありました。
ちょうどその当時、韓国で政治的に問題が多かった時期でした。 朴槿恵大統領の弾劾と関連した様々なニュースが流れており、アメリカに留学した学生たちも政治に多くの関心を持ち始めたようでした。
私は、韓国で3ヶ月間遊びながら時間を過ごすよりは、政治関係のところでインターンとして経験することを決めました。 この時、タイミングも良かったのが、4年に一度行われる国会議員の再選出があった時期だったので、インターン生を募集していました。
韓国の国会議員の事務室のインターンの広告を見て、私は金斗官(キム·ドゥグァン)という国会議員の事務室に応募しました。 インターンに応募した時は、合格することを目的としていたというよりかは、何でもやってみようという考えが強かったです。運よく合格することができ、3ヶ月間韓国の国会にインターン生として勤務することになりました。
インターン生として行ったことは、改正法律案草案作成と当選した地方区とのコミュニケーションでした。 そしてこの仕事を通して感じた印象は、「怖い」でした。 何か政治家たちの目つきはすべてを知っているようで、政治の仕事は私に合わないと思いました。

3ヶ月間の短いインターン生活が終わった後、私はアメリカに戻ってUCLAに編入をしました。 専攻は統計学です。 実は、この時期が私の人生の中で精神的に一番大変だった時です。 短期大学時代とは違って、日々の課題や試験がとても難しかったことに加えて、ペナルティが存在しました。UCLAの専攻を選択できる基準が、たとえ統計学として編入したとしても最初の2学期の単位が良くなければ専攻として認めてもらうことが出来ず、他の専攻に必ず変えなければなりませんでした。他の専攻に変えることになると、また最初からその専攻の授業を受け単位を取得しなければならず、卒業まで時間もかかってしまうことになります。 実際にそのような状況になってしまった友達も何人かいました。
この当時、勉強のストレスからうつ病と不眠症になってしまいましたが、彼女の慰めがあってうまく克服することができました。
また、UCLAの図書館は24時間やっていたので、ほぼ毎日図書館に行って勉強をしました。その結果もあって、問題なく統計学として専攻を選択することができました。

そして卒業シーズンが近づく頃、彼女と将来について話をしました。 彼女は卒業後に日本に帰る計画でした。私は大学院でAIについて学ぶつもりでいましたが、韓国でするか日本でするかそれともアメリカで進学するかとても悩んでいました。日本に行くとなると、当時は日本語が全然できなかったためもう一度新しい場所で適応しなければならないという恐怖がありました。 両親とも話して悩んだ結果、私は日本への留学を選びました。
日本を選択した最大の理由は、日本がAIで自然言語処理の方にかなり発達したということを知ったためです。
日本留学を決めた後、東京の方に行くことに決めました。 その理由は彼女の家が埼玉の方なので関西よりは関東地方がいいと思うようになりました。 大学院を調べていたら東京工業大学院を知り、今の指導教授とメールでコンタクトを取った後、書類を出して面接試験を受けて無事合格することができました。

その後、UCLAを卒業して日本での生活が始まりました。初めての日本の生活は、正直いうと適応することが難しかったです。 アメリカ留学当時は、私があらかじめ英語をたくさん勉強した後だったので意思疎通の問題は特にありませんでした。日本語があまりできなかったこともあり日本での生活は、コンビニで何かを買うことも難しかったです。 彼女の助けと研究室の友達の助けでうまく適応できるようになって自然に日本語を覚え始めました。
また、日本に来て新しい趣味もできました。温泉に行くことです。研究のことでストレスを受けても今度温泉に行って休もうという考えでうまく気持ちを切り替え、乗り切ることができました。 主に彼女と箱根によく行ったり、友達と一緒に別府へ温泉旅行に行ったりもしました。そのように修士生活を送りながら、博士課程にも挑戦したいと思って、現在の博士課程に進学しました。 ここまでが過去の私です。

今の私は、10月末に博士1次ディフェンスが予定されており、現在それを準備しています。

次は未来の私です。
ただ、未来の私は本当に予測が難しいです。 確かなことは、彼女との入籍が控えているということです。 コロナの影響もあって、いつ両家の顔合わせができるのかまだはっきり分かっていませんが、すぐにできるんじゃないかなと考えています。
私自身のことだと、教授になりたい気持ちもあるし、会社に就職したいという考えもあります。
学生生活で勉強ばかりしてきた私なので、これから社会に出るのが少し怖くもありますが、今までの経験をバネにして将来に向けてまたより良い方向に進んでいきたいと思います。

これで私の発表は以上となります。
ご清聴いただきありがとうございました。

 

オンライン出席状況

該当者無し

 

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