会報 第2215回例会 2016年01月06日

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第2215回例会 2016年 1月 6日(水) 例会場:青葉台フォーラム 時間:12:30~13:30
会長 露木健造 幹事 小泉豊 会報委員長 清水保代
司会 飯田正男 SAA 斉唱 『君が代』 / 『奉仕の理想』 点鐘 露木健造 会長
卓話

会長・幹事 新年挨拶

誕生祝 ビジター ゲスト
石川輝久 会員(欠席) 無し 無し
 

お祝い・表彰・挨拶等

ゲスト及びビジター紹介

該当者無し

 

表彰

ポール・ハリス・フェロー認証

PHF

大野富生 会員

 

会員誕生祝

石川輝久 会員(欠席)

 

パートナー誕生祝

齊藤清紀 会員パートナー:満利 様

 

会長報告

会長:露木健造

新年に伴い新春を祝う清酒から新薬を開発した素晴しい日本人の話

日本酒の製法が、実は、世界の医学にものすごい影響を与えたというお話です。

 

引用・参考サイト:http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2842.html

(それぞれの画像はクリックすると当該画像の元ページに飛ぶようにしています)

明治の天才 高峰譲吉

 

アドレナリンといえば、一種の興奮剤として広く世界に知られている医薬品で、心停止時に用いられたり、敗血症に対する血管収縮薬、気管支喘息発作時の気管支拡張薬として用いられています。
アドレナリンは、日本人が発見した物質です。
発見者は、高峰譲吉(たかみねじょうきち)です。

高峰譲吉は、他にもタカ・ジアスターゼを発見しています。
タカ・ジアスターゼは、これまた胃腸薬、消化剤として世界に普及しています。
日本では、新三共胃腸薬の主成分が、このタカ・ジアスターゼです。
高峰譲吉は、古くから餅を食べるとき大根おろしをつけて食べると胃がもたれないということがヒントとなって、このタカ・ジアスターゼの発見に至ったと言われています。

ちなみにジアスターゼと日本人の関係は古くて、日本書紀には神武天皇が戦勝を祈願して水飴を神様に奉納したという記述がありますが、その水飴は、デンプンにジアスターゼを混ぜて分解してつくります。
つまり日本では、ジアスターゼは、とっても古くから使われていたものです。

高峰譲吉

さて、高峰譲吉は、嘉永7(1854)年に、富山県高岡市で、加賀藩の漢方典医、高峰精一の長男として生まれています。
幼い頃から外国語や科学に才能を見せた譲吉は、加賀藩の藩校である明倫堂に8歳で入学しました。
世が幕末を迎えた慶應元(1865)年、譲吉は、よほど頭が良かったのでしょう、若干12歳で、藩費で長崎に留学し、英語を学ばせてもらっています。
明治元(1868)年には、京都の兵学塾、大阪の緒方塾で学び、明治2(1869)年には、わずか16歳で大阪医学校に入学し、その後、後に東京大学工学部となる工部大学校の応用化学科を、首席で卒業しました。

明治13(1880)年、譲吉は、英国グラスゴー大学への3年間留学しました。
英国で彼が興味を持ったのは、スコッチ・ウイスキーの製法です。
ウイスキーは、大麦のモヤシにあたる麦芽酵素でデンプンを分解させて糖化させます。
できあがったモルトを蒸留すると、ウイスキーになります。

デンプンの分解なら、大麦の麦芽酵素より、日本酒に使う麹(こうじ)を使用したほうが効率的です。
麦芽酵素より、日本で使われる麹(こうじ)の方が、でんぷんの分解力が強いからです。
つまり、麹(こうじ)を使うことで、ウイスキーが、早く、たくさん作れる、といわけです。
そこで彼は英国留学中に、「高峰式元麹改良法」を考案しています。
もともと譲吉の母親は、造り酒屋の娘さんで、譲吉は、幼い頃から日本酒造りを習得していたのです。

明治16(1883)年、譲吉は帰国して、欧米視察中の局長高橋是清の留守を預かって、専売特許局局長代理になります。
官職を得た譲吉ですが、ただのお役人になっておとなしくしていることができない。
英国や米国のエネルギッシュな社会を見てきた譲吉は、日本の農業用肥料を改良し、農作物の収穫を飛躍的に高めようと考えます。
そして日本の土壌にあった肥料を探し、研究するとともに、それを製造して販売する会社を設立してしまう。

こうした研究開発や、技術指導は、お役所仕事よりも民間企業の方が展開が速いと考えたのです。
彼は、渋沢栄一から資金を提供してもらい、東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立します。
ちなみに、こうした「官よりも民」という発想は、何も最近の現代人の専売特許ではありません。
そもそも明治政府の方針自体が、根本的に「民の生活をサポートする」という方針です。
もっというなら、明治16年頃の明治政府というは、お金もなくて、たとえば学制を敷いて小中学校をつくるに際しても、その資金は各地の民間頼みです。

さて譲吉は、明治17(1884)年には、米国人女性、キャロライン・ヒッチと婚約しています。

もともと語学が堪能であることに加えて、彼は自分で開発した農業用肥料を米国ニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に持ち込み、さらに日本代表の事務官の一員として万博に派遣されていたのです。
そしてその万博会場で、とキャロラインと出会っています。

明治19(1886)年、再び帰国した譲吉は、かねて米国で特許出願中だった「高峰式元麹改良法」を採用したいという連絡を、米国の酒造会社から受けます。
当時の日本では、まだウイスキーは一般に製造販売されるものにはなっていません。
自分の研究を続け、新開発のウイスキー製造法を普及するには、ふたたび渡米しなければならない。
それにアメリカには、婚約者のキャロラインもいます。

当時の東京人造肥料会社の大株主は渋沢栄一です。
渋沢栄一は、作ったばかりの会社で、まだ軌道にものっていないのに、いまの段階で会社を放りだして渡米するとは何事かと、譲吉をたしなめたけれど、譲吉にしてみれば、会社の事業の柱になるべき新醸造法の研究と普及のためには、渡米しなければならないわけです。
迷う譲吉に、三井物産社長の益田孝は「これからは日本だけを考えていてはだめだ。お国のためにも渡米せよ」と強く勧めてくれ、資金面の面倒も見てくれています。
このとき譲吉、36歳です。

明治23(1890)年、渡米した譲吉は、木造の研究所をこしらえて米麹(こうじ)を使ったウイスキー作りの研究をしました。 譲吉の読みは見事に当たり、米麹(こうじ)ウイスキーで、安く量産されたウイスキーは、全米を席巻します。
譲吉は、晴れてキャロラインとも結婚します。

ところが、米麹ウイスキーの普及拡大で困ってしまったのが、それまでいたモルト職人たちです。
職を追われてしまったのです。
モルト工場に巨額の投資をしていた醸造所のオーナー達も、投資が水の泡になってしまう。
なぜ水の泡になったかというえば、「もとを正せばイエローモンキーのジャップが、みょうちきりんな製法をもちこんだせいだ、コイツだけは許せねえ!」ということになって、怒ったオーナーやモルト職人たちが、譲吉の殺害を企てます。

この時代、まだまだ人種差別が濃厚だった時代です。
白人以外は、どんなに叩いても血を流しても、痛みを感じる神経がないと、本気で信じられていた時代です。
黄色人種など、ペットの猿以下の動物でしかない。
まして黄色人種の命など、野良ネコの命ほどの重さもない。

もうひとつ重要なことは、世界では(これはいまもですが)「報復のおそれのない相手に対しては、どんなひどい仕打ちをしても許される」というのが、いわば「常識」なのです。

弱い者いじめはするな。
喧嘩するなら正々堂々、自分より強いものと当たれ!
などというのは、日本人の価値観であって、世界は違うのです。
強ければ、武器があれば、何をしても許されるという「力の正義」が堂々とまかり通るのが、いまだに人類社会の情況です。

このことは、譲吉の時代の米国が、南北戦争が終わって間もない時代だったからということは理由になりません。
日本には原爆が落とされていますが、これは、その時点で日本にもはや反撃、すなわち日本からの報復のおそれがまったくないという状況だったから落とされています。
もし日本に原爆を落としたら、ニューヨークかロスに、報復のための原爆が投下されるという危険が万分の一でもあったら、日本に原爆は投下されていません。

もうひとつ、米国人のマインドという面において付け加えるならば、今のアメリカは訴訟社会です。
けれどそれは、西部劇のガンマンの持つ銃が、法に変わっただけのことです。
銃は相手のすべてを奪うけれど、法を盾にして相手のすべてを奪うのが訴訟社会です。

和を大切にし、三方一両得を説く日本とは、根本的な考え方が違うところがあります。
ただ最近は、日本的な価値観が、日本以上に米国内(というより世界に広がり)、それがディズニー・アニメの『インサイド・ヘッド』のような対等感になっています。

さて、モルト工場の投資家やオーナーやモルト職人たちは、夜間に譲吉とキャロラインが住む家に、銃で武装して侵入し、家じゅう探し回って、譲吉を殺害しようとしました。
譲吉夫婦は、あやうく地下室に隠れて難を逃れるのだけれど、腹を立てた醸造所のオーナーたちは、腹いせに、譲吉の家や研究施設に火を放って、家を全焼させてしまいます。

生き残った譲吉は、オーナーやモルト職人たちと話し合いの場を設けています。
そして新しい醸造工場に、モルト職人を従来より「高い賃金」で雇うことで和解しています。
新しい醸造工場は、米麹ではなく、モルトを使った工場です。
要するに、譲吉の考案した米麹ウイスキーは、東西の文化摩擦によって挫折したのです。
譲吉は失意のうちに、重い肝炎にかかり、以後、長く闘病生活を米国で送っています。

しかし、そこでくじけないのが明治の日本人魂です。
譲吉は、麹の研究を通じて、明治27(1894)年、デンプンを分解する酵素であるジアスターゼを植物から抽出することに成功します。
このジアスターゼに、譲吉は「タカ・ジアスターゼ」と名付け、デトロイトの医薬品会社パーク・デイビスから、これを消化薬として発売しました。

譲吉が住んだシカゴは、当時米国内で有数の肉製品の産地です。
大量の肉を食べて、消化不良を起こす人も多かったのです。
譲吉の発明した「タカ・ジアスターゼ」は、またたくまに全世界に普及し、製品は大ヒットします。
このとき、譲吉は、販売権の付与にあたって、日本だけをバーク・デイビス社から外させています。
譲吉の日本に対する思いが、こんなところに出ています。

明治32(1899)年、譲吉は、日本で「タカヂアスターゼ」を販売するために、三共商店(現三共)を設立しました。
さらに譲吉は、シカゴに多数ある食肉処理場から廃棄される家畜の内臓から、明治33(1900)年に、アドレナリンの抽出に成功します。
これは、世界ではじめてのホルモン抽出事例です。

翌年、譲吉は、アドレナリンの特許を取得しました。
アドレナリンは、止血剤として、あらゆる手術に用いられ、医学の発展に大きく貢献する。ジアスターゼの発見、アドレナリンの発見によって、譲吉は巨額の特許収入を得るようになります。

明治43(1910)年には、2年がかりで、ニューヨークのマンハッタンのリバーサイドに、純日本風の大邸宅を建築する。
またニューヨーク州メリーワルドには、敷地面積245万坪の別邸を建築し、そこには、明治37(1904)年に、セントルイス万博で使われた日本館を移築しただけでなく、庭には湖や滝までこしらえています。

譲吉はこの大邸宅で、華麗なる民間外交を展開し、日露戦争における日本の米国からの戦費調達などにも貢献しています。

また、日本にある三共商店は、大正2(1913)年に、三共株式会社(現在の第一三共株式会社)に改組し、譲吉が初代社長に就任しています。
そして大正11(1922)年、譲吉は68歳でこの世を去りました。

問題は、このあとに起こります。

譲吉よりも先にアドレナリンの生成に成功したと発表していたジョンズ・ホプキンズ大学のJ.J.エイベル博士が、譲吉の死後、昭和2(1927)年になって、「高峰譲吉の成果は、自分の手法を盗んだ」と主張したのです。

裁判が行われたわけでも、証拠の検証が行われたわけでもなく、大金持ちの大資産家である譲吉の家族から、すべてを奪い去ろうとしたのです。

そもそもイエローが大富豪となっていること自体が気に入らないのです。
そういう社会風潮があって、米国医学会は、エイベル博士の言い分を全面的に認めてしまいます。

そして以降、米国内では「アドレナリン」という名称は廃止され、エイベル博士が名付けた「エピネフリン」という名称が用いられるようになります。
要するにジャップの業績は抹殺しようということです。

ところが、真実というものは、時間はかかっても、かならず明らかになるものです。
昭和40年代になって、譲吉の研究助手だった上中啓三の実験ノートから、エイベルの主張がまったく的外れであっただけでなく、エイベルの方法(ベンゾイル化法)ではアドレナリンが結晶化しないことが判明します。
譲吉の盗作疑惑は、まったくの濡れ衣だったことが明らかになったのです。

そしてこの事実は、アドレナリン発見後100年を記念して米内分泌学会が平成13(2001)年になって、アドレナリン発見百年のシンポジウムで報告され、譲吉は晴れて名誉を回復し、米国内でも「アドレナリン」の名称が再び使用されるようになりました。

エイベル博士が異を唱えたのが昭和2(1927)年です。
それが間違いとわかり、譲吉が名誉を挽回したのが平成13(2001)年です。
アドレナリンの名称が米国内で復活したのが、平成14(2002)年です。
そこまでになんと75年の歳月が流れています。

世代交代というものは、25年をひとサイクルにしているといわれています。
25年で、ひとつの世代が終わり、50年で2世代、75年で3世代が交代します。
ひとつの名誉が、政治的圧力等で穢されたとき、世の中が冷静さを取り戻して真実の姿が明らかになるのには、三代かかるということです。

日本が戦争に敗れて、今年で70年目です。
75年目というと、平成32(2020)年です。
日本が大きく変わる。
その節目がやってきているように思います。

 

幹事報告

幹事:小泉豊

連絡事項

地区・その他

  • ロータリーレートは今月も前月同様1ドル=120円です。
  • 新会員対象(入会3年未満)地区研修セミナーのご案内
    2月5日(金)15:00~18:00 セミナー 18:00~19:00 懇親会 ソシア21にて
    参加対象者:入会3年未満新会員・会長・幹事・クラブ研修リーダー
  • IMは2月27日(土)13:30~新横浜国際ホテルにて開催

クラブ

  • 1月13日は通常例会と18:30~木曽路にて新年会(出席対象)
  • 1月20日(水)は経営研究会18:30~希にて
 

委員会報告等

親睦活動委員会

委員長:井上幸治

 

雑誌委員会

委員長:大野富生

 

出席報告

出席委員長:武藤泰典

 
今回出席状況
  在籍会員 出席 MU済 ビジター ゲスト
会員総数 28 24 0 0 0
(内 出席免除会員数) 5 3
ホームクラブ出席率 外部参加者
  会員数 出席率 正会員
出席
免除会員
出席
Make-up
会員
ビジター ゲスト
今回 28 92.31 % 21 3 0 0 0
前回補正後 28 96.43 % 22 4 1 0 3
前々回補正後 28 81.48 % 17 3 2 0 0
 

スマイルレポート

 

スマイル 24 件

 

ニコニコ

露木健造 会長 昨年は公私ともども、大変お世話になりました。ロータリー活動もほぼ半ばとなりました。会員増強など後半戦となりましたので、今まで以上のご協力をお願いいたします。
小泉豊 幹事 新年明けましておめでとうございます。昨年はみなさま方に大変お世話になり何とか半年過ごせました。本年も宜しくお願い申し上げます。
秋山光正 会員 新年あけましておめでとうございます。みなさん、今年もよろしくお願いします。
浅井優子 会員 新年、おめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。
飯田正男 会員 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
井藤昭宏 会員 あけましておめでとうございます。本年度も宜しくお願い致します。
井上幸治 会員 皆様、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
大地哲郎 会員 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。会長・幹事・役員の皆様、あと6ヶ月頑張りましょう。
大野富生 会員 妻の誕生祝い、ありがとうございます。昨年は休みが多くて申し訳ございません。今年は、だいじょうぶです。
河原裕典 会員 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
北原弘文 会員 新年おめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
工藤公仁 会員 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。
齊藤清紀 会員 妻の誕生祝、ありがとうございます。60才です。明けましてお目出とうご座居ます。法務の為、遅刻しました。申し訳ございません。
清水保代 会員 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。
下中英輝 会員 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
鶴岡武 会員 あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
肥塚俊成 会員 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
日向誓子 会員 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。露木会長、小泉幹事、卓話よろしくお願いいたします。
舟橋金之介 会員 年末から目まいが直らず、さんざんな正月でした。一日も早くリカバリーリカバリーしたいと思います。本年も皆様どうぞ宜しくお願い致します。
武藤泰典 会員 昨年中はいろいろお世話になりました。今年もよろしくお願いいたします。本日、早退いたします。又、来週の例会は神奈川県警の視閲式出席の為、欠席いたします。申し訳ございません。
村松勇治 会員 本年もよろしくお願い致します。
餅田実 会員 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
森一誠 会員 会員の皆様、本年も宜しくお願い申し上げます。会長、幹事、半年頑張って下さい。
若山誉 会員 新年明けましておめでとうございます。会長、幹事、理事j役員、会員の皆様、本年もよろしくお願いいたします。
 

卓話

会長・幹事 新年挨拶

 

露木健造 会長

皆さん今日は、本来であれば冒頭新年の挨拶となりますが私個人として、昨年年末に母を亡くし皆様にお世話になった関係上控えましたが、横浜緑RC会長として改めて新年のご挨拶申し上げます、
新年あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年の景気や世界情勢の話題は経済界トップの話、評論家等で皆さまはご存知と思いますので省略させて頂ます。ただ一つ言える事は世界的な気候変動と日本おいては南海トラフ地震、東京直下型地震、火山噴火等が危ぶまれています。
一番確実に言える事は今年も気候変動による集中豪雨、台風の巨大化の風水害が危ぶまれます、今年の横浜市緑区の出初め式総合演習では水害を主体とした訓練を披露いたします。地震に関しては携行するバックは、中にA4クラス厚めの雑誌や種類を入れイザという時ビルから落下するガラス等を頭を守る事が出来ます。又暴漢などナイフから身を守る事ができます。常、日頃の心がけで自分の身を守りましよう。そして今年こそ、今までより良い年であることを願います。

話しを戻します。
1月2日の箱根駅伝ではないですが、現在の自分の心協は、復路、芦ノ湖を出発し曽我兄弟の池を横に見ながら最後の緩やかな上り坂付近が丁度今頃かと思います。又、1月27日7クラブ合同例会あたりが頂上付近と思います。
後は下り坂ですが、油断すると転びやすく大怪我をすると言われますので今後慎重に後半を迎えます。
7クラブ合同例会は実行委員会が確実に進めており、最後の詰めをしておるところです。先に申しました通り7クラブ合同例会が最後のヤマ場で今から挨拶に苦慮しているところです。
何せ、今までと違った例会を目指している関係上歴代のパスト会長と皆様に恥をお掛けする訳に行きません。と自分にプレッシャーを掛けてしまいます。

話は飛びますが横浜緑RCでは会長になると短命になると都市伝説があると聞きますがマンザラ嘘では無い様に思います。
昨年の母の件と今日の新年の挨拶でストレスが溜まり正月は風邪をひいて寝正月となりました。前向きに捉えれば身体を休めなさいと天の教えととも謂いますので、甘えて毎日テレビを観ておりまして自分なりに有る傾向が有るように思いました。

NHK家康とイギリス TBSぶっちゃけ寺日光東照宮 NHK・BS 103チャンネルなどで家康の関係を多く取り上げておりました。

家康とイギリスでは関ヶ原の合戦で家康はイギリス人を相談役に据え、海外の最新情報を手に入れ、イギリス女王エレザベス一世とスッコトランドとの確執はイギリスのプロテスタントとスペインなどのカトリックが争い、既に日本ではカトリックの牧師が布教し豊臣方に付いており、イギリスとしては家康に勝たせたいと肩入れをしていた、家康はイギリスから30トン級の軍艦とカルバリン砲4門を買った。
大阪冬の陣で、既に合った大砲では200メートルしか射程が無かったため大阪城外堀からでは本丸に届かなかった。カルバリン砲の射程は500mで充分本丸に届き爆裂弾でなかったが、現在の砲丸投げの玉とほぼ一緒の鉄球を轟音と共に高速で打ち込み、吹き飛んだ破片で女中が木端微塵になった。
スペイン艦隊を撃破したのもカルバリン砲で射程差で圧倒した。
現在の自衛隊の話だと厚さ40センチのコンクリートを討ち抜く威力あったから最初の攻撃で淀殿が恐れをなし和睦となり外堀だけでなく内堀までも埋められ次の夏の陣で豊臣の崩壊となった。

関ヶ原夏の陣で小早川陣営に打ち込んだのも、カルバリン砲ではなかったか、現在検証すると火縄銃、大筒では音が小さく、小早川がチジミ上がるほど効果は無かった。カルバリン砲の轟音はさぞや驚いたことだろう。この様に裏でイギリスが深く関与していた事実を初めて知った。

その後家康はイギリスから手を切り鎖国政策を取った。
今まで学校の歴史では、キリシタンの排除だったが、実は関ヶ原の戦いで浪人となった侍を傭兵に買い、当時イギリスは海賊行為で富を増やしており、そこに日本人が関わると今後外交に影響が出ると判断し、人身売買の禁止と当時鉄砲の鉛を外国から90%輸入しており、各大名に行き渡る事を防止し、天下統一和平に障害と判断し鎖国を取った。

大砲製造と輸出

大砲生産は、1573年にはサセックスに8基、ケントに1基の炉を設け、年間500~600トンの鉄が大砲やその砲弾に鋳造されていた。純度の高い鉄鉱石と水車を利用して巨大な吹子で送風して反射炉の効率化を計り、1600年頃には年間生産量は800~1000トンに増加していた。高い生産力と評価を獲得したイギリスの鋳鉄砲は、16世紀後半の数十年から17世紀初めの数十年の間、オランダ、スペイン、フランス、スウェーデン、デンマークにも輸出されるようになった。しかしカルバリン砲は輸出はなかったと思います。カルバリン砲は巨大で鋳造するには一気に大量の熔けた鉄が必要だったので、他国では出来なかっただろうと思います。

日本への移入

イギリスの大砲は大阪冬の陣の際に日本にも移入された。慶長十九年(1614)十二月五日付でリチャルド・コックスが平戸から東インド商会に送った書簡によると、カルバリン砲4門、セーカー砲1門が千四百両で、他にも火薬十樽、鉛一万一千斤が徳川家康によって買い上げられた。
その後、家康は亡くなった。

墓所・霊廟・神社

本光国師日記によると、家康は遺言として「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ。」としている。この遺言に従い、家康は始め駿府の南東の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬された。遺言では「小き堂(=小さなお堂)をたて」とされていたが、江戸幕府は威信をかけ藤堂高虎を作事奉行とし元和3年4月(1617年4月)に社殿を完成させ朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、さらに徳川家光治世下の寛永13年(1636年)からは家康21年神忌に合わせ藤堂や秋元泰朝を中心として寛永の大造替が行なわれ、今日見られる荘厳な社殿へと改築された。
京都 →岡崎→久能山(太陽ライン)→富士さん→日光。東西外様大名の参勤交代時に必ず東照宮にお参りさせた。京都 →岡崎→久能山(太陽ライン)は西に豊臣方に睨みを利かせた。

ぶっちゃけ寺では、日光東照宮の紹介見どころが放映。
正面鳥居までは現在の遠近法で作られ、日光東照宮の石鳥居は、江戸時代に建立され石造りの鳥居としては日本で最大です。鳥居の下中央に1枚の敷き石で異なった石材が雨を予想する石だそうです。標高も丁度雲が掛る高さで湿度が高くなると石材の半分が黒くなり、又乾燥すると乾くことを利用している。
石鳥居は黒田長政が奉納し、恩賞で12万石から50万石の引き上げに感謝しての奉納で大きな地震にも何度かあったが倒れなかった。鳥居の柱は左右若干大きさが異なるそうでこれも地震対策か。大きな鳥居を度のように作ったかは、エジプトのピラミッドを同じ方法で大きな砂山を作り石材を引き上げて結合し最後砂山を取り崩す方法がとられた。
鳥居をくぐり石畳は菱形で先端が進行方向になっている。左手に5重塔がある心柱が下から10センチ浮いており地震際の揺れを押さえている。現在のスカイツリーと同じ地震対策とは驚く。鳥居といい、5重塔といい絶対に倒してはいけなかったのだろう、それは幕府が倒れると同じ連想させてはいけなかった。
5重塔最上部の屋根の作りは下の4段とは違い五層目の屋根「垂木」だけが禅宗様(唐様)の「扇垂木」となっています。
1層から4層までの垂木は並行な和様「並行垂木」で造らています終わりのない平和を表している。この様に未来永劫平和な戦の無い世の中を望んだ仕組みが多くある。眠り猫の裏には雀の彫刻があり、猫との共存を表している。

陽明門から廟方向は真北(北極星)でその反対はな真南江戸方向、陽明門から南敷き石最後左から3個目北に2個目の石がパワースポットになっている。
猿の彫刻で見ざる、言わざる、聞かざるは3面の正面に配置され、和もって尊とべしを表し他の側面は誕生から子猿の成長、恋の苦悩,結婚、妊娠の繰り返しを表現されている。
沿道の燈籠は各大名からの奉納で陽明門階段右が伊達家からで鉄製で左が島津家ブロンズ製が奉納されている。
陽明門をくぐり左に回転燈籠があるが、オランダで制作され最上部の葵紋の作りが逆さになっている。日本であれば大事だが外交を配慮してのことで幕府の寛容さを参拝する庶民に表現している。最後に家康の廟(お墓)の前には鶴と亀が奉納されているが朝鮮から奉納された。これも外交を重視した結果か。
戦乱の世を治め未来永劫平和を祈った家康を扱った番組だが、正月早々国会前で安保法案反対、戦争反対と叫ぶ連中をNHK,TBS,朝日などが意図的に放映しているのを観ると今年の7月参議院選挙に対する意識付けかととれる。

NHK・BS1で実写フイルムを使い、これが真実かのようにロシアのスターリンから始まり最後日本の戦争突入、敗戦を放映していたが偏向番組だった。
南京入場の場面では横たわる死体を強調するなど偏向番組だった。
何れにせよ、戦争は絶対にしてはいけないは大前提である、今後天変地異で大きな犠牲者が予想される時代に入っていることは間違いない、その時生き残った人の真価が問われる、我々ロータリーアンは如何なる時も奉仕の精神を忘れてはならい事を肝に命じました。

 

小泉豊 幹事

新年あけましておめでとうございます。本年もご指導ご支援のほどよろしくお願いいたします。皆様のおかげをもちまして私のようなものでもなんとか半年幹事を務めることができました。改めて皆様からのご指導ご支援に対しましてお礼申し上げます。

まず何と言っても露木会長にお礼を申し上げたいと存じます。仕事のできない幹事をサポートしていただきありがとうございます。また、ご自宅も会場に提供くださりありがとうございます。クラブ奉仕の若山委員長にもちょくちょくアドバイスなどをいただき感謝申し上げます。河原職業奉仕委員長には中々予約が取れない崎陽軒での職場見学を企画実行していただきました。ありがとうございました。社会奉仕委員会の井藤委員長には緑区民祭り・詐欺撲滅ポスターなどを取り仕切っていただきありがとうございます。

工藤国際奉仕委員長には柔道着寄付活動後、ブラジルへの訪問や古着プロジェクトでご活躍いただきありがとうございます。齋藤青少年奉仕委員長は舟橋インターアクト委員長とともに桐蔭の生徒さんなどと積極的に活動いただきありがとうございます。

井上親睦委員長には先日盛り上がりましたクリスマス家族会をはじめ、田中家での移動例会等々忙しく活動いただきありがとうございます。
北原プログラム委員長には例会運営に的確にお取り組みをいただきありがとうございます。
清水会員増強委員長には新会員のご紹介に力を発揮いただきありがとうございます。
森クラブ研修リーダーには自費でのロータリーのPR活動やクラブフォーラムの企画に感謝いたしております。また、地区でご活躍の鶴岡会員・武藤会員・北原会員もお忙しい中活動をいただきありがとうございます。

事務局長根さん野村さんにも大変お世話になっており感謝いたしております。

このほか本当にみなさまのいろいろなご支援をいただき半分終わったわけですが、あと半分もどうか引き続きご支援をいただけますよう、お願いをいたしまして年頭のあいさつとさせていただきます。

 

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