第2015回例会 2011年9月28日(水)
例会場:なごみ邸 時間:18:30~19:30
司会 | 大地哲郎 副SAA |
斉唱 | 『手に手つないで』 |
点鐘 | 北原弘文 会長 |
会長報告 | 北原弘文 会長 |
幹事報告 | 下中英輝 幹事 |
卓話 | 平川清樹 会員 清水保代 会員 |
誕生祝 | 該当者無し |
ゲスト | 無し |
ビジター | 無し |
出席報告 | 齋藤好貴 クラブ奉仕委員長 |
発行者 | 工藤公仁 会報委員長 |
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会長報告
会長:北原弘文
ロータリアンの職業宣言
1989年、RI理事会は「職業倫理訓」に代わるものとして、「職業宣言」を採択しました。
『ロータリアンの職業宣言』
事業または専門職務に携わるロータリアンとして、私は以下の要請に応えんとするものである。
- 職業は奉仕の一つの機会であると考えること。
- 職業の倫理的規範、国の法律、地域社会の道徳基準に対し、名実ともに忠実であること。
- 職業の品位を保ち、自ら選んだ職業において、最高度の倫理基準を推進するために全力を尽くすこと。
- 雇主、従業員、同僚、同業者、顧客、公衆、その他事業または専門職務上関係を持つすべての人々に対し、公正であること。
- 社会に役立つすべての仕事に対し、それに伴う名誉を認め、敬意を表すること。
- 自己の職業上の才能を捧げて、青少年に機会を開き、他者の特別なニーズに応え、地域社会の生活の質を高めること。
- 広告に際して、また自己の事業または専門職務について人々に伝える際には、正直を貫くこと。
- 事業または専門職務上の関係において、普通には得られない便宜ないし特典を、同僚ロータリアンに求めたり、与えたりしないこと。
この職業宣言は、ロータリーの綱領・倫理宣言・道徳訓などの一連のロータリーの思想の流れを確認し、ロータリーの綱領の「ロータリーの目的」についてさらに具体的にその実践の細目をあげて、改めてロータリーの倫理化の推進の目的を明確にしています。
その中でも上記第2項では国境を越えた「人の倫理の道とか道徳」と言われる高い倫理基準に名実共に忠実であるべきことを厳しく教え、第3項には「職業の品位を高め」とあり、「天職」という考え方を内に秘めて、「自ら選んだ職業なのだからその職業に最高の倫理基準を推進せよ」と厳しく自らに命じています。第7項では誇大広告の禁止、第8項にロータリアンへの特典贈与を戒めています。
(出典:ロータリーの源流、RI2680地区 田中毅PDG)
President KITAの豆知識 その6
卓話
辞書を引いてみると、「卓話」は出てきません。似たような言葉で「卓論」があり、意味は、すぐれた議論、素晴らしい意見、とあります。「卓」(たく)という文字には、机、テーブルという意味の他に「抜きん出る」という意味があります。したがって「卓話」という文字理解からいえば、講話とまでいかないまでもスピーチよりも格調がある感じがします。
ここはやはり米国生まれのロータリークラブですから、いろいろ探っていきますと、雑誌「ロータリーの友」を見てみますと『卓話の泉』というコラムがあり、そこに「TABLE SPEECH」の文字がありました。ここでやっとなぞが解けました。今や、テーブルスピーチは日常語であり、「卓話」とは直訳当て字であったと思われます。
1905年シカゴ・クラブ結成当初の例会では新聞記事を読み合ったりしていたそうですが、第3回会合で、石炭商で初代会長のシルベスター・シールが『石炭業界について』話しています。これが卓話第1号といわれています。
テーブルスピーチが毎回楽しみである、という例会になって欲しいと思います。
幹事報告
委員会報告等
委員会報告
クラブ奉仕委員会 -[委員長:齋藤好貴]
皆さんこんばんは。先日24日に桐蔭学園文化祭にインターアクトの活動の様子を見学訪問に北原会長・下中幹事・竹内新世代委員長とともに行って参りました。人の流れの良い場所にブースを設けて障害者施設で作られた品々を販売したり、募金や活動のパネル展示等もあり非常に盛況な様子でした。
会長・幹事・新世代委員長それぞれ購入や募金そして学生部員を激励されました。顧問の柴先生とも今後の活動予定などについて伺うこともでき、訪問を喜んでくださいました。また、女子部のインターアクトにも訪問し、顧問の先生や生徒さんと交流し激励して来ました。インターアクトの今後の活動に大変期待が持てる訪問となりました。
出席報告 - [クラブ奉仕委員長:齋藤好貴]
会員総数39名
出席率50%:前回補正後76%:前々回補正後65%
スマイルレポート
スマイル 8件
ニコニコ
- 北原弘文会長
平川会員。清水会員 スピーチ楽しみです。気楽にどうぞ。
- 齊藤清紀会員
3.11 東日本大震災により、本堂にダメージがあることが 7月のゲリラ豪雨で判明しました。大棟がわれていました。昨日より屋根の大修理を始めました。年内には新しい瓦にて葺きあがる予定です。
- 河原 裕典会員
今回のゴルフコンペでは 完走を目標に参加致しましたが、露木さん 井藤さんというメンバーに恵まれ たまたま優勝することができました。ありがとうございました 今後ともよろしくお願い致します。
- 井藤昭宏会員
平川さん 清水さん イニシエーションスピーチ よろしくお願い致します
ニガニガ
- 森宏会員
欠席が多かったので 罰金を払います。
- 加藤喜夫会員
早引けさせてもらいます。
- 小泉豊会員
本日 遅刻しました。申し訳ありません。
- 平川清樹会員
出席少なくて申し訳ありません。
お誕生日祝い
会員誕生祝・パートナー誕生祝 該当者無し
卓話
新会員イニシュエーション
平川清樹 会員
趣味 ゴルフ マラソン
みなさん、こんにちは。
SMBC日興証券の平川です。前任の田畑のあとを受けまして横浜緑ロータリーに入会させていただき3カ月をすぎました。
今回、改めてご挨拶、自己紹介の機会をいただきありがとうございます。
生まれてこの方、自己紹介なるものを15分もの長時間したことがありません。というわけで支離滅裂になったりとりとめのない話に極力ならないよう、ポイントを三つに絞ってお話しさせていただきます。
- 生い立ち
1967年(昭和42年)12月 青森県弘前市で産まれました。銀行員の父親、母親、妹の4人家族です。 弘前市はりんご、さくらまつり ねぷた祭りがよく知られているかと思います。父親の転勤による札幌3年間を除いて高校卒業まで過ごしました。小学生の頃はとにかく本を読むのが好きで毎週図書館に入り浸りでした。少ないおこづかいも無計画に本に費やして、よく、母親に叱られたものです。高学年になると普通に文庫本などを読み漁っておりまして、まだよくわからない性描写や大人の恋愛感情などちょっと子ども心には理解を超えるような部分を何度も読み返しては理解しようと苦悩しておりました。性格も非常に几帳面で繊細であったように思います。その後、中学ではバスケットボール部、高校ではラグビー部と学校の勉強以外は部活動一色の日々が続きます。中学に在籍していたバスケットボール部は県大会優勝など強豪でしたが結局最後まで控えの選手でした。練習も相当厳しく、朝練、夜遅くまでの練習に土日は試合と、宿題をやる以外は何もしていないような3年間です。最後の試合に出られなくて悔しい思いもしましたが、やりきったという充実感と練習時からチームのためにという気持ちを学んだ3年間でもあります。高校に入学してバスケットボール部にしきりに勧誘をうけたのですが、中学時代にはなかったボクシング部、ラグビー部の練習を興味本位で見に行ったのが災い(?)ラグビージャージを着せられて、それあげるから、明日からもくるようにと指示され、あれよあれよという間に部員になってしまいました。結局、中学同様、高校の3年間もラグビー漬け、1年生の終わりにレギュラーになれたのもモチベーションアップに繋がり、3年生で副キャプテン兼バックスリーダーをまかされました。食べては練習の日々でしたので、体も日増しに大きくなり体重も85kgになりました。ちなみに現在は69kgです。
高校の紹介をさせていただきますと、地元では略して「弘高」と呼ばれていましたが、創立130年ほどの古くて、かつ、地元では特徴のある学校です。まず、1点目として、生徒会がありませんでした。ないというよりは名称が自治会で生徒は生徒のために自主的に生徒が決めごとを作るという考え方で教師は基本的にオブザーバーです。服装、髪型なども原則自由で周囲の学校からは随分と羨まれていました。 もう一点が 高校単独のねぶた運行です。これは7月の文化祭の最大の目玉で各クラス約二週間の作製期間でねぶたづくりをします。毎日、土日もなく、早朝から、夜遅くまで連日ねぶたづくりに励みます。いよいよ本番、市内の中心部の交差点を含めこのためだけに交通規制して行われます。市内を一周して戻る頃には臨時に設けられた体育館の医務室が足を攣った生徒で溢れかえり野戦病院と化します。ちなみに学園祭の後に行われる模試の結果が毎年、極端に落ち込むので教職員や父兄と自治会の間で継続に対する論争が行われていました。高校のねぶたも約50年の歴史ある活動なので今後も続いていくことを願っています。
高校卒業を控え、将来の進路として興味が高かったのがお医者さんでした。近くに弘前大学があり医学部ラグビー部と練習を通じて交流があり、面白い人が多かったことや、試合中、怪我人などの面倒を見ている姿に漠然と憧れを抱いていたのかもしれません。専攻は理系でしたので、深く考えることもなく医学部を受験しましたが、学部の入学試験の偏差値が高いことが計算外でした。見事に不合格、仙台で親元を離れ浪人生活を送りました。思い返すと初めての親元を離れての寮生活は、それは新鮮で、いまだに親には言えませんが、長老と呼ばれる寮の二浪、三浪の先輩たちに、酒,たばこ、麻雀、パチンコなど勉強の邪魔になるものの楽しみと大人気分の勘違いを叩き込まれました。そのおかげもありまして一年後、医学部は不合格、併願で受けた文系学部は合格して、結果的に横浜国立大学経済学部に入学いたしました。大学時代はアルバイトと麻雀とイベントサークルのパーティーに明け暮れる毎日、今思い返してもよく卒業できたなと思えるくらいです。卒業して何年経っても時々卒業できない夢を見ます。
- 仕事
その後、当時の日興証券に入社いたしました。赤坂支店3年半→山形支店3年→本店営業部3年→仙台支店1年半→金融商品部1年半→京都支店5年→リテール事業推進部1年→青葉台支店
この間に、米国シティグループ傘下の日興コーディアル証券、また、昨年には三井住友グループのSMBC日興証券と親会社も名称も変わり、それ以上に社内の評価体系や仕事の中身も劇的に変化しました。もう人生の半分が会社生活なので思い出を語りだすときりがありませんが、やはり新人の頃の驚きだけはいまだに鮮明に覚えています。赤坂支店に配属され社内を見て回ったあと、名刺とカバンとパンフレットを渡され顧客開拓して来いというのが最初の指示でした。えっ、どうやって、誰を?と相当に戸惑いました。(中略)→不器用なのかなかなか馴染めなくて、覚悟を決めるのに3年かかったと自覚しています。その後は、おかげさまで、迷いなく打ち込むことが出来まして、仕事を通してご縁が出来た方や、彼らの物の考え方に接して学んだ驚きなどお金に換えられない経験を、この場ではとても言い尽くせぬほど経験させていただきました。(中略)
仕事の内容、日々の営業活動は様変わりしています。
社員は基本的に日中は外訪が中心で、それに伴い収益構造も大きく変化しています。
例えば、株式の売買手数料は総手数料の1割程度ですし、そのほとんどが客注といわれる、弊社からはなんの働きかけもしていない売買によるものです。
私自身、株式営業といわれる営業をしたのは10年前くらい前までさかのぼります。
現在は投信、債券の販売による収益と、保険、スワップ、デリバティブ商品による収益がメインとなっております。最近の例では、販売に力を入れておりますのが米国国債です。その中でも残存30年ほどの割債です。狙いは米ドルの逆張りと景気の先行き不透明感による金利低下、FRBの金融政策による投資家のポジション変更、保有証券目減りのリスクヘッジです。8月初め30円程度のものが直近42円と4割ほどの上昇になっています。
(中略) - 趣味
ゴルフとマラソンです。
ゴルフは10年くらいつきあいでやっているもののなかなかハマるという感覚にまではいたりませんでした。それが1年前にスコアで100を切ってから妙に面白くなりまして、月に二回はコースにでています。二週間まえに自己ベストの85で回ったのですがドライバーを使用しないため周囲からは非公認と言われてます。どなたかドライバーの打ち方教えてください。(略)
マラソンは4年前から始めまして年平均20回超大会に出ており、特にフルマラソン(42.195キロ)が大好きで年間5,6回は出ています。今年は2年前の自己ベストを今年は更新する気構えで練習しています。フル、ハーフともに自己ベストを出した時に禁煙していたものですから、今年はきっぱりやめて・・・と思いますが自信はあまりありません。(略)
まだまだロータリアンの自覚が希薄な若輩者でございますが、皆さま先輩をお手本として、一日でも早く職業を通して社会貢献できるような人間になるべく切磋琢磨したいと思います。改めて今後のご指導、ご叱咤よろしくお願いいたします。
新会員イニシュエーション
清水保代 会員
このたび横浜緑ロータリクラブに税理士清水先生の紹介で入会させていただくことになりました清水保代です。どうぞよろしくおねがいいたします。
最初、「イニシエーションスピーチ」をするように言われたとき、内心どんな話を皆様の前で話さなくてはならないのか不安でした。幸いその時となり座ってにいらっしゃった荒井先生からイニシエーションスピーチというのは自分の経歴等話すことだと教えていただき、ほっとしたと同時にこれまで一度も大勢の人の前で話したことがないのでとてもまともには話ができるはずがないと思い気が重くなりました。
そこで、申し訳ないのですが本日は、前もって用意いたしましたスピーチのための原稿を見ながらお話しをさせていただくことをお許しください。
私は横浜市緑区十日市場に生まれ、結婚後5年間くらい横浜市鶴見区に住居を移しましたがその後現在に至るまで十日市場で暮らしております。子供の頃はまだ十日市場駅もなく本当に緑が多い山や畑や田んぼのある、言ってみればのどかな田舎町でした。そんな風景にあわせるかのようにのんびりとした子供時代をおくりました。当然、小、中、高校は横浜市内の学校にかよいました。大学と後でお話しいたしますが就職したわずか3ヶ月弱の間東京に通学、通勤しました。言ってみれば生粋の「はまっこ」と言いたいのですが、私の友人に言わせると私が生まれたこの付近は「はまっこ」の圏内からイメージ的にはずれているそうです。
現在司法書士事務所を開業しておりますが、事務所も十日市場駅から3分、自宅も駅から3~4分のところにあります。
「司法書士」という職業は何をする仕事なのか、昔よりは皆様に知られてきているように思いますが、私が司法書士を受けようと専門学校の門をたたいたとき、法学部卒業でありながら、私自身どんな仕事をするのかあまり知らないまま、勉強をはじめていました。
というのは、私が司法書士になろうというか、試験を受けようと思ったきっかけですが、私の卒業の年は、今ほどではないにしろ、就職難でした。特に4年生大学の女子は就職先がありませんでした。私も10社ぐらい次々と受けたように思います。たしかそのなかで2社の合格をいただきましたが、1社は自宅から通勤できないこと、もう1社は生命保険の会社で、企業担当のセールスレデイという職種のため、親から反対をうけ、また、もっといい仕事があるのでないかと思ってしまいその会社には就職しませんでした。だが現実は厳しく、残りの全ての会社から不採用の通知をうけてしまいました。
そんなとき学生時代にアルバイトしていた損害保険の支店長から就職先がなかったらおいで・・・と言われ、その支店長の口利きで丸の内にある損害保険会社の本社に入社できることになりました。現在とは違い当時、女子社員は縁故就職が多かったように思います。ところが通勤を初めて1ヶ月くら至ったとき、まだ本採用でなく見習い期間中だったと思いますが、支店長が本社に呼ばれ、私の採用のことで厳重注意を受けたのです。というのは女子の採用は短大卒までで大卒は採用枠外であること、私が大卒であることが一部の代理店のかたがたに知られ「だったら自分の娘も入社させたかった」言う人も出てきてしまっており、このままの状態おくことができなくなっていたのでした。
とにかく私をどうするかと問題になり、会社の人事と支店長との話し合いで、このまま会社に通いながら代理店の研修を受け試験を受けて損害保険の代理店になったらどうかという話になりました。私も支店長の手前、断ることもできず、会社の言われるまま代理店になるための勉強をしはじめました。ところが、仕事の合間に代理店資格の講義をきくのですが、何となく会社の中で浮いた存在になり、又、保険の代理店になりたいと思っていたわけではないので、会社にこのままいることに疑問を持ち始めてしまいました。そう考えるとすぐにやめたくなり、ただやめるに当たって支店長の顔をつぶさず、なんと言って会社を辞めようか考えていたとき、ふと学生時代に一緒にいた友人の一人が就職できなかったら、弁護士は無理だから司法書士の勉強をしようかな・・・と言っていたのを思い出しました。余談ですが、この弁護士は無理だから・・・というのは司法書士を目指した人の常套句・・・だそうです。
そこで、会社に「代理店の資格取得の勉強を始めたら、昔からの夢である司法書士の資格を取りたくなりそのため勉強したいので退職したい」と言ってやめることにしました。
不思議なもので、何をする仕事かどうかもよくわからないくせに口に出して一度司法書士の勉強すると言ってしまうと、なんだかその気になり、その年の10月に専門学校に通いはじめました。
毎年7月に試験があるのですが、最初は無職のまま専門学校にかよって勉強するという大変恵まれたスタートきりました。入学してしばらくたつと、当たり前ですがそんなに簡単には資格は取れないということ、一応法学部を出ているので、ちょっと勉強すれば何とかなると考えたことが大違いだったと気づき、すぐに後悔しはじめました。
そんなとき、同じ専門学校に通っている人が仲間を作って勉強をしているのでそこに入らないかとと誘ってくれました。そのグループは司法書士事務所に勤めていたり、弁護士事務所の事務員だったりと、学校の中でも優秀な人たちだったので何となく敷居が高く気乗りはしなかったのですが、優柔不断な者ですからいやだと断ることもできずその仲間に入りました。しかし、司法書士を目指した動機が動機ですからみんなのあとからのろのろとついて行くような勉強の仕方でしたので当然1年目は、見事に落ちてしまいました。その年、その仲間の6人の中から1人合格しました。2年目は、だんだんと仲間達の真摯に勉強に向かう姿勢に影響され積極的に勉強するようになり、そうなると模試でも時々上位に名前が出るようになり、合格への期待が高まりましたが残念ながら2年目も失敗してしまいました。なまじ合格できるかもとのへんな期待感があっただけにその後の虚脱感・・その頃勉強仲間から暇なときは司法書士の勉強をしてもいいという条件で弁護士事務所の事務の口があるけど仕事をしないかと言われ、正直いつ受かるかとの確証もないし、このまま無職のまま勉強していく自信もなくなりかけていたので、その事務所に就職させていただきました。内心合格の難しさがわかりかけていたので、渡りに船でした。
弁護士事務所での事務員生活は、その先生が自分の顧問先やら、友人や依頼者にことあるごとに「この子は司法書士の勉強してるんですよ。」と話してしまうことを除けば先生は優しいし、仕事もあまり難しい仕事をするわけでなく、補助的な仕事ばかりでしたので快適でした。ただ。今考えると、安易にこの試験から逃げ出さなかったは先生が公言してくれたおかげもあるように思います。
そんなわけで、司法書士試験から逃れたいと思っても、試験を受けることをやめるわけにはいかない雰囲気になっており、働きながら土曜、日曜に講習を受けに通う勤勉な生活を続けざる得なくなってしまっていました。
しかし、その後三回目も四回目の試験もおちてしまいました。
就職して1年目で三回目の試験の結果を知ったときがいちばんつらかようにおもいます。合格するには何を勉強すればいいのか、わからなくなっていました。毎年専門学校に通い、ほとんど同じようなことの勉強を繰り返しやっているので、模試の成績はいいのですが受からない。先が見えない、合格なんてあり得ないとさえ思ってきていました。その頃仲間達も合格したり、違う道を歩み出したりとだんだんいろいろな方向へあるきだしていました。
このときが一番この試験から逃げたしたいと思った時期だったように思います。そして試験をやめる口実をさがしていた時期でもありました。
ところが四回目の不合格を手にしたあたりからどうせ、やめるにやめられないのだから、大げさですが一生受かるまでこの試験を受け続けよう・・・と思うようになってきました。開き直り、落ちることに対して恥ずかしいという気持ちを持つのをやめようと思うようになりました。
そして専門学校も通信教育に変えて、模試の結果ばかり追いかける生活から、多少ゆとりのある生活にかえてみました。
するとその開き直りがよかったのか、五回目に運良く合格することができました。
その後、結婚し、そのまま事務所で仕事を続けていたのですが、子供が生まれると同時に法律事務所を退職し専業主婦となりました。2人目の子供が3歳になった頃、法律事務所の先生から復帰を促す電話をいただいたり、友人から仕事の再開を進められたり、又別の友人からは業務に必要な機械を譲るから仕事を始めたらと言われたりしているうちに、専業主婦も楽しかったのですが仕事がしたくなり、後先考えず司法書士の仕事を始めました。ただ子供が小さいので最初は自宅で事務所を開設しました。その10年後仕事場を自宅から現在の事務所に移しました。
今回このスピーチのために図らずも今までを振り返ってみて、今お話しいたしました試験合格至るまでだけでなく、その都度、いろいろな人から手助けや影響を受けてきたことに気づかされました。生まれた土地から離れていない私のような者でもいろいろな人に出会い、そこからいろいろな刺激や、助けや影響を受けて現在があるのだと思いました。、あの時、あのことがなかったら、又あの人達がいなかったら司法書士の仕事につくことがなかったかもしれませんし、また仕事をつづけてこられなかったのではないのかとおもいます。
今、司法書士の仕事は多様な分野にひろがつております。今までのように不動産登記、商業登記をする登記業務のみを業務としてやっていく時代ではありません。簡易裁判所の代理権が与えられ訴訟業務に関連した仕事や家庭裁判所関連した家事事件、又成年後見等の分野にも手をひろげており、いろいろな相談を受けることが多くなっております。専門的な法律知識の研鑽に励むことはもちろんのことですが、人としての倫理観や常識的な判断力やその他諸々の人としての人間性も高めていかなくてはならないのでないかと思っております。
このたびのロータリークラブの入会と言う思いもよらなかった新たな展開に不安と緊張でいっぱいですがロータリークラブの方々と交流させていただくことにより、皆様から大いに刺激をいただきながら成長し、勉強していきたいと思います。そして、おこがましのですが、困っている人にすぐ手をさしのべることができるようなを町の身近な法律家と呼ばれる司法書士の本来の姿に少しでも近づけるようになれたらと考えております。
いろいろ知らないことが多すぎて皆様にご迷惑をおかけすることもあるかとおもいますが、どうぞよろしくご指導いただけますよう御願いもうしあげます。
最後に、つたない話をさせていただき又拝聴していただきありがとうございました。