横浜緑ロータリークラブ

会報 第2079回例会 2013年 2月 6日

 



 

第2079回例会 2013年2月6日(水)
例会場:青葉台フォーラム 時間:12:30~13:30

司会 大野富生 SAA
斉唱 『君が代』
『奉仕の理想』
点鐘 武藤泰典 会長
会長報告 武藤泰典 会長
幹事報告 露木健造 幹事
卓話 職業報告
 大地哲郎 会員
 露木健造 会員
誕生祝 無し
ゲスト 米山奨学生 朝魯門 君
ビジター 大森順方 会員
 (東京北RC)
出席報告 高嶋淳二 委員長
発行者 井上幸治 会報委員長
 

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報告等

米山奨学金授与

米山奨学金授与

米山奨学生 朝魯門君

 

米山奨学金授与

 

表彰・お誕生日祝い

ベネファクター

ベネファクター

露木健造 会員

 

パートナー誕生祝

井藤昭宏 会員 パートナー・紀子 様 / 森一誠 会員 パートナー・宣子 様

髙嶋淳二 会員 パートナー・紀子 様 / 飯田正男 会員 パートナー・しず子 様

 
 
 

会長報告

武藤会長

会長:武藤泰典

 先週の8クラブ合同例会、お疲れ様でした。総勢152名の皆様が参加して頂き、楽しいひと時を過ごすことが出来ました。この例会のときに、新横浜RCが推進する「南アフリカ学習支援」の寄付の協力に対し、新横浜RCの国際奉仕委員長の山戸伸孝様から、お礼状が届きましたので、その一部を読まさせて頂きます。

 「会の中で、私ども新横浜RCが推進する「南アフリカ学習支援」のPRをさせて頂き、本当にありがとうございました。
 皆様の温かい応援のおかげで、実に84,400円のご寄付を集めることが出来ました。このお金で、5人の子供が1年間、学校に通うことが出来、昼食も食べ、運動着などの学用品も用意することが出来ます。
 南アフリカの子供たち、彼らのご両親に成り代わり、厚くお礼申し上げます。
 皆様のご寄付は、新横浜RCが責任を持って、南アフリカの子供たちに届けさせていただきます。本当にありがとうございました。」
以上でございます。

 
武藤会長

 さて、話は変わりますが、先週、ある団体の初詣会がありまして、川崎大師をお参りしたあと、大江戸温泉物語に行ってまいりました。ここは、横浜緑RCでも10年位前に夜間移動例会をやったところです。ここで、今回、初めてフィッシュ・セラピーというものを体験してきました。足湯の中に足を入れると、魚が寄ってきて、足の角質を食べてくれるというものです。初めは、足に電気を通されたみたいにピリピリするのですが、やがてくすぐったくなります。そのうちに慣れてくると、気持ちよくなります。15分位、足を入れて置くだけで足の角質が食べられ、ツルツルになりました。加藤会員と一緒にやったのですが、加藤会員は、お湯に入れていたところの脛毛がすっかり食べられて、無くなってしまいました。
 このフィッシュ・セラピーに使われている魚は、ガラ・ルファというコイ科の淡水魚です。ヨーロッパや西アジアに生息していて、人間の古い角質を食べ、人間が患っていた皮膚病を治したことから、ドクター・フィッシュと呼ばれています。本来は、藻に付いているプランクトンなどを食べる雑食性の魚です。
他にも、石や岩に付いている苔や、砂の中にいる虫などを食べるそうです。
この魚は、水温が37度位でも生息出来るので、その習性を利用して、高温ではプランクトンが生きられないため、温泉で、人間の古い角質を食べさせるセラピーを、考え出したということです。一度やると、病み付きになるかもしれません。因みに、料金は、大江戸温泉物語では、15分間で1,575円です。

 
 

幹事報告

露木幹事

幹事:露木健造

  1. 1月30日(水)第五グループ8クラブ合同例会出席されました会員、ご苦労様でした。第二部懇親会ヴァイオリン奏者天満敦子(あつこ)さんのステージにおける強烈な自己投入が素晴らしかったです。使用のヴァイオリンはアントニオ・ストラディヴァリウス晩年の名作。弓は伝説の巨匠ウージェーヌ・イザイ遺愛の名弓。
  2. 千葉緑RC事務局員が白水(しろず)ゆかりさんに代わりました。
  3. 他クラブ例会変更なし
  4. その他
    本日のスマイルクジは雪の為、用意しませんでした。
    来週13日と再来週20日続けて行います。

以上

 
 
 

委員会報告等

委員会報告

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出席報告

出席報告

出席委員長:高嶋淳二

会員総数:34名(内出席免除会員数7名)
出席:28名(内出席免除会員数3名)
MU済:0名 ゲスト:1名 ビジター:1名

 
ホームクラブ出席率
今回 出席率 = (P)正会員出席 + (P1)免除会員出席
+ (M)メーキャップ会員
×100
(N)正会員 + 病気等免除
+ (P1)免除会員出席
93.33% = (P) 25 + (P1) 3 + (M) 0 ×100
(N) 27 + 0 + (P1) 3
前回
補正後
100.00% = (P) 21 + (P1) 3+ (M) 10 ×100
(N) 27 + 0 + (P1) 7
前々回
補正後
90.00% = (P) 22 + (P1) 3 + (M) 2 ×100
(N) 27 + 0 + (P1) 3
 
 

スマイルレポート

スマイル 7件

ニコニコ

  • 武藤泰典 会長

    朝 魯門君 ようこそいらっしゃいました。東京北RC 大森様ようこそいらっしゃいました。ごゆっくりお過ごしください。

  • 天野 正昭 会員

    チョロモン君、ようこそ。

  • 井藤 昭宏 会員

    妻の誕生日祝いありがとうございます。

  • 北原 弘文 会員

    朝 魯門君こんにちは。卒業に向けて、ラストスパートですね。

 

ニガニガ

  • 露木健造 幹事

    1月23日例会欠席、誠に申し訳ございませんでした。

  • 清水 保代 会員

    お休みが続いて、申し訳ありませんでした。

  • 宗 貴嗣 会員

    申し訳ありませんが、来週の例会はお休みさせていただきます。

 
 

卓話

職業報告

卓話

大地哲郎 会員

日本の医療制度と問題点

私は、1941年11月14日(昭和16年)東京市牛込区余丁町で生まれた。太平洋戦争の開戦が12月8日なので戦前派と言われてしまっている。
父親が、帝国陸軍病院(現在の国立第一病院後の国立国際医療センター)の軍医教官をやっていた関係でその官舎で産声を上げた。生まれたばかりの頃はまだ日本が連戦連勝で食料状態も問題なく、生後1年で東京市健康優良児で表彰を受けている。
昭和19年になると敗色濃厚となり、山形県で疎開生活を送ったが4歳の記憶ではただひもじい思いをしたことだけが残っている。

昭和20年8月敗戦後、両親の故郷である千葉県夷隅郡布施村(現在の御宿町)へ帰郷し父親は小さな診療所を開き軍馬に乗って往診をしていたのを覚えている。家の周りは小川が流れ、タンボと畑と小さな森が連なり真っ暗になるまで遊び回っていた。兄弟7人いるが私一人だけ幼稚園の経験がない時代であり、7名のうち弟を一人小児期で失っている。小学校、中学校とガキ大将で過ごしたが高校受験ということとなり、学区外の千葉一高受験のため早くも下宿生活が始まった。3歳年上の兄が現役で東大医学部へ入ってしまったので、高校の先生から大地の弟かとよく言われ、古文の先生からは「賢兄愚弟」だなお前はとよく叱られた。卒業間近になりいざ何になろうかと考えたが、当時は建築ブームが始まっており建築家もいいなと思っていたが、何となく医学部受験となった。始めは国立を目指したが簡単にはいかず予備校で3年間過ごし私立の昭和医科大学へ入れた。

卓話

入学すると予備校生活の反動からか、最初は音楽部(フルバンド)、野球部を兼業で頑張ったが2年目からは野球部専門となり、昭和大学野球部卒業かと言われるくらい打ち込んでいた。練習の前は東急池上線の旗の台から玉川まで走ってからの練習で、練習が終わると銭湯へ行き赤ちょうちんで過ごす生活の連続出会った。夏は野球部の合宿、冬はスキー部の付き添いでスキー合宿と一体いつ勉強をしていたのだろうと思うくらいの学生生活であった。医学部の卒業が近づくと皆、専門科をどうするか決めるのだが、あまり勉強もせずいたのであれこれ考えなくて済むスパッとわかる外科がいいと判断した。しかし昭和大学の外科の教授とは当時盛り上がっていたインターン反対の学生活動で喧嘩相手であり、すんなり入るわけにいかず知人の紹介で東京女子医大第二外科に入局となった。昭和44年の事である。

当時の外科は臓器別に少しずつ医局が編成され始めた頃で、東京女子医大はその先鞭を付け、心臓血管センター、消化器病センター、脳神経センターと次々にセンター化を行っていき、全国からこれぞという外科医を集め大変に盛会であった。
私が入局した第二外科は一般外科、小児外科、救急医療を担当しており、朝6時から夜の12時までほとんど寝る間もないくらい動き回っていた。私の入局する1年前からインターン制度は廃止となり、卒業後すぐに将来の担当科へ入局するという制度になっていた。
主任教授を旗頭に助教授、講師、助手、医局員と完全なピラミッド体制で教授が白と言えば白、黒といえば黒の世界でもあった。医局を中心に関連出張病院北海道から沖縄まであり、全て医局の采配で人事は決まっていった。私もその世界の中で助手、講師、医局長と階段を上り気がつくと教授の定年が迫っており、教授から君は外で頑張ってもらいたい、横浜の病院の院長はどうかと言われその声に逆らえず平成3年横浜新緑病院へ赴任したのである。(49歳)
その頃は病院の管理制等については全くの素人で、当然看護制度も知らず着任してからの勉強となった。一口に病院といっても(まだマスコミでも医療機関すべてが病院と思って平気にアナウンサーでも診療所のことを病院と言っているのを見ても進歩がないことを知る。入院ベット数19床以下は診療所、または有床診療所という。)

また、病院もすべて同じでなく機能によって分別されており、入院料等コストも違ってくる。現在日本には大学病院レベルの病院が80病院ある。次に急性期医療を主に行う急性一般病院が約4,000病院、これらの中の1,500の病院はDPCという診断群分類包括医療評価という定額制の中で医療を行っておりそのベット数は48万床となっている。
このDPC病院への参加資格は、平均在院日数、院内の医療体制等細かな参加資格が決められている。日本の病院数は10数年前は1万と言われていたが現在は約7,500病院、90万ベットまで減少してきている。それぞれの病院が今後の医療方針によってどっち方向で運営していくか迷っております。

どうしてこんなに減少していくのかというと、圧倒的に医師数が少ないことに大きな問題がある。OECD20カ国の平均医師数は人口十万人辺り300人だが、日本では224人と総医師数でも少なくなっている。そこに厚生労働省が新しい研修医制動を平成16年より導入した。それまでの研修医は5・6万円の月給であったのが大学病院で320万円、臨床研修病院では450万円程度と以前に比べ破格の収入を得られるようになった。この数年前新入医局員の過労死事件があり、最高裁判所腕過労死と認められこの頃より医師は労働者と認識されるようになっている。
大学病院より一般臨床研修病院の方が給料もよく、臨床研修症例も多く、医局での下働きの無駄な労働もない都会の研修病院へ卒業生は自然に流れて行ってしまったのである。
大学病院では入局者が極端に減少しだし、出張関連病院から医師を呼び戻すため地方の遠隔地の病院ほど医師不足が加速して行っている。少なくなると残った医師へ負担がかかりさらに医師が辞めていくという負のスパイラルへ完全に入っている。

現在医師の求人はほとんどが紹介業者からの紹介が主体で、一人当たり300~400万円お仲介料がかかってしまっているのが現状だ。医局紹介の時には出来の悪い人が来ると、今度のはダメだというと変えてくれたのに、業者の紹介ではそういう制度でなくなってしまっている。
今後まだまだ、高齢者人口は増えていく、すなわち需要は増えていくのに供給が追いつかないのである。80の医科大学で現在は5人から10人の定員増加を認めて政府は過ごそうとしているがそんなことではとても解決にならず、日本医師会は反対している、医科大学の増設が一番の解決策だと私は思っている。特に福島・宮城・岩手県に一箇所ずつ新設が最良の解決策と思っている。
私どもの横浜新緑総合病院は現在DPC病院の資格を取り、4月下旬には新病棟の増設も完成予定で完成後は空いたスペースに救急外来、健康管理センター、内視鏡センター等が順次工事に移っていく予定だ。しかし急性期医療は人間を大量に必要とし、少しでもベットが空くと全部人件費で消えていき、ほとんど利益が出ない状況が続いている。
その中でも横浜市北部地域の急性期医療を守ろうと皆で頑張っておりますので宜しくお願い致します。

 

卓話

露木健造 会員

  • 事業所紹介
    • 会員 露木健造 (株)霧が丘ガレージ 代表取締役
    • 業種 自動車販売・修理業(整備業)
      BOSCH カーサービス店及びBOSCHパーツ代理店・BOSCH 電装サービスショップ
    • 1982年設立 操業31年経過
      BOSCHとの関係・経歴年数27年
      BOSCH カーサービス店は日本全国で100店舗・全世界で12,000店舗
      弊社が日本の1号店です。約8年経過しました。

 何故車は故障するか?整備経験約40年で得た結果は輸入車、日本車含め電気が正しく流れない為故障が発生する。何故電気が正しく流れないか?バッテリーに充分電気が蓄えられていない結果、不足した電気を発電機が充電するがその間の時間がかかり過ぎて他の電気を必要とするユニットが正確にコントロール出来ない為と電圧降下した出力用のケーブルが発熱し増々抵抗が大きくなり悪循環の結果トラブルを起こす。タクシーや一般営業車は常に一回始動すると長時間走行するのでバッテリーは常に満充電となるので電気的には良い結果となります。但し営業車は金銭的に最低の費用しかかけないので他の定期的にメンテナンスが必要な部位が省略される為、他の故障が発生しやすくなる。一般乗用車において、1か月に使用する頻度が少ない車は定期的にバッテリーの補充電をおすすめします。
現在の車はオイル交換の交換距離は10,000㎞~15,000㎞とメーカー推薦となっておりますが一回の走行距離の少ない車のエンジンオイルはガソリンにより希釈されるのと不完全燃焼のカーボンにより劣化しやすく、早めに交換をしないと調子が悪くなります。
よって、1回の走行距離の少ない奥様用お車は内燃機関付エンジン車やハイブリッド車より電気自動車(EV車)が最適と思います。
総論は1回の走行距離が少ない経年車は電気不足によるトラブルの発生が多く、走行距離の多い車は消耗部品の定期的交換を怠るとダメージの大きいトラブルが発生しやすい。
雪道やパニックブレーキの対処法
現在の車は殆んどABS装置が装着されておりますので、急ブレーキを踏んでもタイヤはロックしません。乾燥路面で50㎞/hのスピードで急ブレーキを踏むと何メートル先で停止すると思いますか?25mとか長い距離を想像すると思いますが実際は6mから7mと短い距離で停止します、但しABS装着車です。装着してない車はタイヤをロックするともっと長い停止距離となります。ですからパニックブレーキを踏むときは床が抜ける位の気持ちでブレーキを踏んで、ハンドルを切って対処物を避けてください。雪道も同じです。ESP装置(横滑り防止)装着車は凍結路面コーナーでの安全走行に発揮しますのでABSと同じにブレーキを踏んで危険回避してください。車がスピンした際は自分の行きたい進行方向へ顔を向けハンドル操作します、その際はハンドルの切り角は出来るだけ小さく行きたい方向へ瞬間にハンドルを切ると、行きたい方向に車が姿勢を整えます。

天は人の上に人を造らず

福沢諭吉の格言として有名な言葉と言えば、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」です。
これは諭吉の「学問のすすめ」の冒頭に出て来る言葉で、およそいまの日本人なら、誰もが聞いた事のある、いわば日本人の常識となっている言葉といえます。
意味は、「天は、人々に対して、みな生まれながらにして、貴賤(きせん)上下の差別なく、自由自在、互いに人の妨げをなさず、おのおのが安楽にこの世を渡られるようにしている」となります。

これは「学問のすゝめの「天は人の上に・・・」に続けて、諭吉自身がそのように書いていますから、間違いありません。
戦後、教科書などでは、「人にも職にも、上下なんかないのです。だから人はみな平等なのだ」と教えたりしているようです。
ところが、です。
実際に福沢諭吉の「学問のすゝめを読んでみたらわかるのですが、諭吉は、冒頭のこの言葉の後に、すぐにそれを否定している文を書いています。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と一般にはいわれるけれど、現実に世間をみれば、かしこい人もあれば、おろかな人もある、貧しい人もいるし、富める人もいる。生まれたときから貴人(きじん)もあれば、最初から卑しい身分で生まれて来る人もいる。その様子は、まるで雲と泥の違みたいです、と諭吉は、そのように書いています。

要するに諭吉は、世間一般では「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」みたいなことをいうけれど、現実はそうではない。生まれたときから、人にはそれぞれ決定的な差がある、と説いているのです。
だからこそ、学問をして、知的武装をし、すこしでも賢く、貴い(とうとい)人となるよう、人は努力しなければならないと諭吉は説きます。
だからこそ、本のタイトルが、「学問のすゝめ」なのです。
それを、あたかも諭吉が「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と、人類の平等を説いている。人はみな平等であり、生まれたときから天賦(てんぷ)の才能をもっているなどと、事の是非もまだわからない子供達に誤ったことを平然と教え込み、学問すること、努力することを否定する。

そんなことで、子供達が社会に役立つ立派な大人になれるはずもありません。
要するに、日教組教育の歪みというものが、こういうところにまで根深く浸透している、ということなのです。
さらにいえば、諭吉はこの「学問のすゝめ」の中で、次のような事も書いています。
どういうことかというと、「およそ世の中に無知文盲(むちもんもう)の民ほど哀れなものはない。

知恵ない者は、恥さえも知らない。自分が馬鹿で貧窮(ひんきゅう)に陥れば、自分の非を認めるのではなく、富める人を怨み、徒党を組んで乱暴をはたらく。
恥を知らざるとや言わん。
法を恐れずとや言わん。
(中略)
こういう愚民を支配するには、とてもじゃないが、道理をもって諭(さと)そうとしても無駄なことである。
馬鹿者に対しては、ただ威(い)をもっておどすしかない。
西洋のことわざに、愚民の上に苛(から)き政府あり、とはこのことである。
これは政府の問題ではない。愚民がみずから招くわざわいである」と、こう書いているわけです。
斜め上のおとなりの国や、周辺国に公害ガスをまき散らす国、あるいは日本にいながら、日本を貶める(おとしめる)ことしか考えない在日、そして教育を歪める日教組や、左翼主義者、いずれもまさに愚民そのものです。
そういう者に対しては、断固として厳しく接しなければならないと、諭吉は、ほかでもない、学問をすすめようという本の中で説いているわけです。
要するにこれは、鞭(ムチ)でしばかれて、無理矢理、使役させられたり、収奪(しゅうだつ)されたりするような、酷い仕打ちに遭いたくないなら、しっかりと学べ、ということです。

さらに諭吉はおもしろいことを書いています。

人は万人みな同じ位にて生まれながら上下の別なく自由自在(じゆうじざい)云々(うんぬん)というけれど、それは「権理道義が対等だ」ということであって、貧富、強弱、智(ち)愚(ぐ)の差は、はなはだしいほど、あるものだ、と説いています。

つまり、人には身分の上下もあれば、金持ちも貧乏人もある。そういう意味では、人はそれぞれがみんな違っているけれど、人としての「権(けん)理通(りつう)義(ぎ)」に関しては、あくまで人は対等であって、そこには一厘一毛の軽重(けいちょう)もない、と説いているのです。

ではその「権(けん)理通(りつう)義(ぎ)」とは何かといえば、人が命を重んじること、自分の身代(しんだい)所持(しょじ)のものを守ること、その面目(めんぼく)名誉(めいよ)を大切にすること、そういうことは、誰もが同じだというわけです。

平等というのは、かけっこをして、一等者もあれば、ビリの子もいるけれど、全員を一等賞にしてしまう、というのが、平等です。
けれど、実社会において、そんな観念は絶対に通用などしません。
世間は厳しい競争社会なのですから、あたりまえのことです。

けれど対等というのは、あいつは勉強では一番だけど、俺はかけっこでは一番だ、これでツーペー(対等)だ、という考え方です。

つまり、平等は、人と人との差異を認めませんが、対等は、人に差異があることを前提として、そのなかで自分の自活の道をひらこうとする。
それが対等意識というものです。

そういう対等になれる、あるいは対等になれるように努力する権理通義は、人は誰しも同じようにある。
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずというのは、そういう対等になるべく人が努力をすることができるという条理を、人は生まれながらにして共有している、ということを説いているわけです。

だから、学べ、というのです。
ちなみに、諭吉は対等ではなく、同等という言葉を使っています。

では何をどう学べばよいのか。
これについても、諭吉はおもしろいことを書いています。

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文字は学問をするための道具にて、たとえば家を建てるのに、槌(つち)や鋸(のこぎり)が必要だというのとおなじです。
槌や鋸は、家を建てるに必要な道具だけれど、その道具の名前ばかりを知っていて、家を建てる方法をしらないなら、それは大工さんとはいえません。
ということは、文字を読むことばかり知っていて、「物事の道理をわきまえない者」は、これを学者とはいいません。
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実におもしろいたとえを謂っていると思うのですが、人が学ぶべき学問の根幹が、ここに書かれているように思います。

つまり「物事の道理をわきまえる」ということです。
数学や化学、医学などの学問はもちろん大切です。
けれど、いかなる学問であれ、それを学ぼうとする人が、「物事の道理をわきまえない人」であるなら、それはまさに、マンガに出て来る「マッドサイエンティスト」です。早い話がキチガイです。

では、物事の道理は、何によって学ぶことができるかと言えば、それこそが、正しい歴史認識であり、私達自身の祖先の築いてきた日本の国史を学ぶことにつきると、私は思っています。なぜなら学ぶに足るだけの歴史を、日本はちゃんともっているからです。

戦前も、福沢諭吉の「学問のすゝめ」はたいへんよく読まれた本です。
そして戦前の教育を受けた方々なら、福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」は、権理通儀を指す(さす)ということは、ほとんど正確に学んでいます。

ところが戦後左翼は、この言葉だけをとりあげ、あたかも諭吉のこの言葉が、共産主義的平等思想であるかのように偽装しました。
他人の言葉の枝葉(しよう)末節(まっせつ)だけをとりあげ、イメージだけで事実をねじ曲げるのは、まさに左翼のお家芸ですが、こういう、いわば現代日本人の常識となっている言葉ですら、意図的なねじ曲げが行われているということについては、私は、断固、放置すべき問題ではないと思っています。

近代史研究家の落合さんが、おもしろいことをおっしゃっていました。
その言葉を、今日の最後に掲げさせていただこうと思います。
「左翼思想は妄想、運動は詐取(さしゅ)、統治は犯罪、悲劇は繰り返す、予防が大切」

 

凛として

河原撫子(かわらなでしこ)

 たおやかに
   やまとなでしこ
     咲きにけり
  凛(りん)と気高く
    たじろぎもせず

長谷川伸(はせがわしん)の書いた本の中に、「日本捕虜志」という作品があります。
第4回菊池寛賞を受賞した本です。
その中で、二木可南子(ふたきかなこ)さんという実在の女性が紹介されています。
彼女は、日本が降伏した昭和20年当時、数え年20歳でした。
東京で陸軍に徴用され、同じ年頃の娘3人とともに、シンガポールの医薬部隊に配属されています。

可南子(かなこ)さんの父、二木忠亮(ふたきただすけ)氏は、は英国のロンドンで個人商店を営んでいました。
そのため可南子さんはロンドンで生まれ、ロンドンで育ちました。
ある日、可南子さんの母がロンドンで亡くなり、父は娘を連れて日本に帰国しています。
やがて戦争が始まり、父はその英語力が買われて、軍に徴用されました。
大尉相当官の英語通訳となり、マレー半島の攻略軍に配属されています。
娘の可南子さんも徴用されました。
「父のいるシンガポールへ行きたい」と条件をつけたのが聞き入れられて、医薬部隊に配属されました。
医薬部は軍医少将の指揮下で、軍医中佐3人と、薬剤の中佐と主計少佐などが6人、そして徴用の技術者が600人という大部隊でした。
女性は可南子さんのほかに3人。
いずれも英語が書けてタイプが打てる女性です。
ことにロンドン生まれの可南子さんの英語は格調が高かったそうです。
終戦を迎えたとき、このシンガポール医薬部には、英国軍が接取にくることになりました。医薬部としては、接収のときのもつれを未然に食い止めるためにも、英語が堪能でタイプの打てる4人の日本人女性たちは、いてもらいたい人たちでした。
しかし接収に来るイギリス人が、すべて敬虔(けいけん)で紳士的とは限りません。
乱暴され、狼藉をはたらかれて、最悪命を失う危険さえもあります。
結局一人ひとりを説得することなり、可南子さんには軍医官があたりました。

軍医官は勇気を奮ってこう言いました。
官「あなた以外の三人の女性にも、残留してもらいたいと、それぞれ今お話をしています。」
軍医官の言葉が終わると同時に可南子さんは、
可「喜んで残留いたします。」と答えました。
あまりにはっきりとしているので、かえって軍医官の方がとまどってしまいました。
官「え?」
可「わたくし、東京へ帰っても父はおりません。」
官「そうでしたね。あなたのお父さまはあのころから消息が絶えたのですね。」
可南子さんの父はその言動が軍の一部の怒りを買い、危険な地域に転出され、消息が絶えていたのです。

可「ええ、ですから残留を喜びます。父はいつになってもシンガポールに、わたくしがいると信じているはずです。父は消息が絶える少し前に言いました。『父子のどちらが遠くへ転出となっても、一人はシンガポールにいようね。もう一人はいつの日にかシンガポールに必ず引き返してこよう。いつの日にかシンガポールで再会の時があると信じて』と」
官「二木さん、有難う。今後の仕事はあなたを疲労させるでしょうが元気を出してやってください。お願いします。」
可「はい。愛国心は勝利のときだけのものではないと、散歩しているとき父がそう言いました。」
官「そうでしたか。勝利のときより敗北のときこそ愛国心をと、お父様が言ったのでか・・・・。
二木さん、もう一つ。
人すべてが善意を持っていはいない。忌(い)まわしい心を持つものもいます。僕は、いや僕たちはあなた方4人の女性に危機が迫ったとき、人間として最善をつくすために、死にます。これだけがあなたがたの残留に対して、わずかに確約できる全部です。」
可「いえ、そのときには少なくともわたくしは、一足お先にこれを飲みます。」
可南子さんがそのとき、襟の下からチラリと見せたのは青酸カリでした。
軍医官は唇をかみしめて、嗚咽を耐えました。
そしてついに咳を一つしました。
それは咳ではなく押し殺したしのび泣きでした。
可「できたらどうぞ、わたくしの死骸にガソリンをかけて、マッチをすっていただきたいのです。」
当時、終戦で復員する日本人を狙って、乱暴をはたらき、その女性が死んでもなお恥ずかしめをあたえられるという事件が実際にありました。可南子さんは、自分の遺体が陵辱(りょうじょく)を受けないよう、焼いてくれと言ったのです。
9月1日キング・エドワード病院に、英国のハリス軍医中佐が、300名の武装した英国兵とともにやってきました。
4人の女性は青酸カリに手をかけて、窓のカーテンに隠れるように成り行きを見守ったそうです。
ハリス中佐の横には、老紳士がいました。老紳士は、医学博士のグリーン氏です。
彼は穏やかなまなざしで言いました。

グ「日本人の皆さん、私はまだあなたがたの気持ちがのみこめないので、武装した兵を必要としました。日がたつにつれ、武装しない兵をごく少数とどめるだけにしたいと思います。皆さんはそうさせてくれますか」と、にこっと笑いました。
ある日、日本刀が幾振りも隠されていたのが発見されます。
グリーン博士は激しく怒りました。
グ「ここの日本人が私を裏切ったのが悲しい。私の憤りを和らげうる人があれば、言うがよい!」
可南子さんは、軍医の意を受けて発言しました。
芸術としての日本刀の在り方、名刀の奇蹟(きせき)の数々、新田(にった)義(よし)貞(さだ)が海の神に捧げて潮を引かせた刀、悪鬼(あっき)を切り妖魔(ようま)をはらった刀などの伝説などなどです。
日本の言葉で昼行灯(ひるあんどん)という言葉があります。これを人にあてて薄ぼんやりした人のことをいいます。
マレー人の言葉では、白昼に灯を点じていくとは、心正しくうしろ暗いことのない人をいうとも話しました。
そして、
可「人種と言葉の差のあるところ、感情と思慮にも差があるはずです」とユーモアを交えて説きました。
苦りきったグリーン博士の顔は、いつか和らぎ、何度もふきだしそうになりました。
グリーン博士は、時折、可南子さんのロンドンなまりの英語を懐かしむように眼を閉じて聞いていました。グリーン博士はロンドン生まれだったのです。
可南子さんが席につくと、グリーン博士は言いました。
グ「発見された日本刀は直ちに捨てます。日本刀を捨てたものの追求はやりません。」
軍医たちは語りあいました。
A「いつか警備隊員で色男ぶってるのがいたろう。あいつが上村(うえむら)美保(みほ)江(え)さんに失礼なことを言ったのさ。すると彼女は、『汝は警備隊員か侵略隊員か』と毅然として言ったそうだ。
後でグリーン博士は『お前の頭の中の辞書にはレディという項がないのだろう』と言ったそうな。そこでその兵は転属を志願して二度と顔を見せなくなったそうだ。」

B「それはね、可南子さんが教えたんだ。
降伏直後、3人の女性を集めて、イギリスの女性という超短期講座を開いたそうだ。だからあの4人はイギリスの兵隊につけこまれることはない。
だけど、その3人は、イギリス人の将校に階段で会えば、どうぞお先に道を譲るけど、可南子さんは決して譲らないんだ。僕は何度も見ているよ。
あの子はロンドン育ちだけど、それだけじゃない。
国は負けても、個人の権利をそのために自分で進んで割り引くのは卑劣だという信念があるのだね」
グリーン博士がかくも寛大だったのには、昭和17(1942)年、英国軍が降伏して日本軍が入ったとき、博士が捕虜になった経験があったからです。
監獄の施設はひどかったのですが、やがて日本軍が、敵と味方を一つに視て、双方をあわせて供養した無名戦士の碑を建てたという話を聞きました。

さらにたびたび監獄に来て、私財を投じて食糧や薬や日用品をながいあいだ贈ってくれた何人かの日本人がいました。

グリーン博士は、「自分たちが生き延びたのはこのお蔭です。いつの日か報いたい」と語り合っていたのです。
「わたしは、チャンギー監獄で日本人によって人間愛を贈られたのです。わたしはこれに答えなければならない。」

雨季に入ってグリーン博士はロンドンに帰り、後任としてカンニング博士がくることになりました。
着任したカンニング博士に、可南子さんは前日にタイプした、残留60人の日本人の名簿を博士に提出しました。

グリーン博士がその名簿を読み上げました。
「上村美保江、守住浪子、成田由美子それから二木可南子」

カ「Oh! フタキ。フタキですね。」
軍医「そうです。カンニング博士」
カ「私はこの名をずっと尋ねていたのです。」

まもなく二木可南子さんが呼ばれて部屋に入ってきました。カンニング博士は、またたきを惜しむように可南子さんを凝視したそうです。

可「ドクター・カンニング、お忘れになっている言葉をどうぞ」と可南子さんは毅然として言いました。

カ「あっ、おかけください。「ぶしつけに見つめて大変失礼しました。私があなたをみつめたのは、あなたの顔に見出したいことがあったからです。タダスケ・フタキを知りませんか?」

可南子さんの心は胸打ちました。けれど声に変化はいささかもありません。
可「私の父です。」
カ「OH!」
可「1940年、東京へ帰るまでロンドンにいた二木忠亮ならばです。」
カ「そうです。そうです。そして1942年にシンガポールに日本軍の通訳でいた人です!」
可「父です、確かに。」

可南子さんの頬が赤く染まりました。
カ「あなたはあの人の娘か。」
可「父をご存じですか?」
カ「忘れるものですか。」
可「父は生きていますか?」
カ「ああ、あなたも私と同様、あの人の現在を知らないのですか。」

カンニング博士は可南子のそばに来て抱き寄せ、
「カナコの父が、カナコの前に立つまで、私がカナコの父になります。」とささやきました。

カンニング博士も日本軍のマレー攻撃で捕虜になってチャンギー監獄に入れられていたのです。

200名の捕虜はそこから連れ出されて、タイとビルマをつなぐ鉄道の大工事にかりだされました。
その時の捕虜係通訳が二木だったのです。

二木は捕虜の辛苦をます生活の中で献身的につくしました。病人やけが人、衰弱者があるごとに二木はできるかぎりのことをし、その姿に捕虜たちは二木を、神の使徒ではないかと噂しあったほどだったのです。

二木は長期間捕虜達と一緒でした。けれど、1944年に入って突然姿を消し、二木の後任者も彼がどうなったかを知りませんでした。

カンニング博士は可南子に遭遇してから、イギリス軍、アメリカ軍、オーストラリア軍、オランダ軍と二木の生死を照会しました。
けれど一向にわかりません。

激しい雷雨が去ったある日のことです。
カ「カナコ、誰かカナコを呼んできてくれ」

可南子さんが姿を見せると
カ「カナコ、お父さんは生きていたよ! 妻から電話で知らせてきた。 グリーン博士も電話で知らせてくれた!」

そのときの可南子さんの深い微笑みを、後でカンニング博士は「東洋の神秘の花」とたたえたそうです。

カ「カナコ、お父様はフィリピンにいた。アメリカ軍が今朝知らせてくれた。すぐに希望のところに二木を送還するそうだ。」

これを聞いて可南子さんの眼には、みるみるうちに涙があふれました。

こうして可南子さんは一人シンガポールにとどまり、フィリピンから来た父と再会できたのでした。

父を慕って、シンガポールの医薬部に単身、赴任した可南子さん。
敗戦によって施設が接取されることになったときに、
「愛国心は勝利のときだけのものではない」と、自ら残留を望んだ可南子さん。
この精神性の高さ、これがやまとなでしこです。

残ってもらう女性の身に何かありそうになったら、「自分は人間として最善をつくすために死にます。これだけがあなたがたの残留に対して、わずかに確約できる全部です!」と、嗚咽した軍医官もすばらしいと思います。

自分の彼女でもなんでもないのです。
いってみれば同じ職場のスタッフの女性です。

そのスタッフ女性のために、彼は「万一のときは、自分は人間として最善を尽くして死にますっ!」
と発言しているのです。
しかも「それが自分に確約できる全部です!」という。

多少の訓練は受けていたとはいえ、医官です。
そのお医者さんが、職場の女性のために、自分に残されたすべて、そのすべてというのは、もはや自分の命しかない。その命を賭して、あなたを守って死にます、と言うのです。
これが日本人です。

「いいえ、もしそういうことがあれば、私はこれを飲みます」と青酸カリを見せる可南子さん。
可南子さんは言いました。
「できたらどうぞ、わたくしの死骸にガソリンをかけて、マッチをすっていただきたい」
これって、死後の自分の遺体をきれいなままで守りたいっていうことです。もうこんなこと言われたら、ほんと絶句です。

そして英国軍が接取にやってきたときも、凛として是非を主張した可南子さん。

イギリス人の軟弱男が、女性に下品な口をきいたとき、「汝は警備隊員か侵略隊員かっ!」と、凛として言い放つ。これまたすごいです。

日本女性は、そうした凛とした高みのある女性だったのです。
そしてそれが、大和撫子というものだと思う。

可南子さんにいたっては、階段の道すらも譲らない!!気丈です。

考えてみてください。
当時のイギリスは、大英帝国です。
イエローは、家畜以下の存在でしかなかった、そういう時代です。

身長だって、当時の日本女性は150cm少々です。
対する英国人は、平均身長190cm以上です。
これだけの体格差があり、しかも相手は武器を持った戦勝国民です。

その大柄な英国人将校が前からやってきて、小柄な可南子さんが、道さえ譲らす凛として胸を張って階段をすれ違う。
現代日本人よ、その凛々しい姿を見よっ!と言いたくなります。

そうした気丈さに心打たれた英国人の将校が、可南子さんのために、父親を探してくれるんです。

父親が見つかった知らせを受けたときの可南子さんの微笑みを、博士は「東洋の神秘の花」と讃えました。
わかる気がします。

当時のことです。捕虜の日本人女性は化粧などしていません。スッピンです。

でも、命の輝きというか、人格からにじみ出る美しさというのは、下手な化粧などよりも、はるかに気高く美しいものだと思います。
どこぞの国では、顔の整形が大流行りなのだそうです。
けれど違うと思う。
どんなに顔かたちがよくても、美しく見えない人もあれば、けっしてよい顔立ちとはいえないのに、なぜか花があり、人を惹きつける魅力のある人もいます。

そしてこのことは、年をとると一層明らかになります。
学生時代には決して美男美女の部類ではなかったのに、年輪を重ねたら、とてもいい顔立ち、物腰、雰囲気になる人がいます。その逆もある。
それは、内側からにじみ出るものだと思います。

可南子さんのオヤジさんも立派な方です。
捕虜のために、ほんとうに必死で、私財までつぎ込んで働いきました。
当時、日本人にすら、配給食や医薬品が行き届かない時代です。
飽食に慣れた英国人の生活水準と、日本のそれとでは天地ほどの開きがありました。
そういう中で、捕虜のために最善を尽くしたお父さんも、ほんとうに立派な方です。

そしてこの父娘に、昔ながらの日本の家庭をみる思いがするのです。
というのは、おそらくこの父は、娘の可南子さんを、対等な人として育てたのであろうと思うからです。

親と子、大人と子供には、違いがあります。
親子は決して平等な関係ではありません。親には親としての責任があるし、子には子としての義務があります。
そして大人は様々な経験から学んでいて、子は、そういうことをまだ知らずにいます。
親と子には、はっきりとした違いがある。

そして違いがあるからこそ、対等なのです。
誰もが平等などというのは、まやかしです。
戦時捕虜と、その管理官では、当然、立場の違いがあります。
けれど、立場は違っても、人として対等に接する。

おそらく、そういう父親の日頃の姿勢は、可南子さんの子育てにも活きていたのでしょう。
相手が戦勝国民であろうが、大柄な男性であろうが、人として対等に振る舞う。
かつての日本にあって、いま消えそうになっているもの、それが、私は「対等」という観念なのではないかと思います。

さて、この物語には、後日談があります。

ある日、グリーン博士が、「帰還の目処がついた、昭和21(1946)年の桜の花咲く頃に、あなたがたは日本に帰れるでしょう」とうれしい知らせを告げにきたとき、ちょっと気になることを言ったのです。

グ「ジェロンの収容所にいる日本人諸君が、あるイギリス人に不満をもっているそうですね。そういう話を聞いていますか?」
可「いえ、聞いていません」
グ「私も確実には知らないのですから、今の話は取り消します。」

それは実は、こういうことだったのです。

ジェロン収容所はシンガポールから5マイル離れたところにありました。
日本への復員船が3隻来たのですが、輸送指揮官の英国人少佐が男だけ乗せて、女性の乗船を許さなかったのです。

その後、暴風雨が吹く季節風が吹く時期となり帰還船は中断してしまいます。
そこで日本人女性のなかで、怨嗟(えんさ)の声が起こったのです。
それに残った男どもが声を合わせるから、不満はますます大きくなる。

3月下旬にやっと1隻来たのですが、このときもやはり女性の乗船は許されませんでした。
少佐に対する怨嗟の声は、ますます高まったのです。

やっと次の引き上げ船がタンジョン・バガーの大桟橋に入ってきたとき、ようやく女性たちと子供全員の乗船が許されました。
女性たちは満腔(まんこう)の不満を胸いっぱいにして乗船してきました。

するとその英国人少佐がお別れにきて、こんなことを話したのです。
少佐「皆さんは私を怨んでいたそうですね。でも私は皆さんに少しでも楽に日本で帰れることのほうが、私は大切だったのです。
私は船が入選するたびに検分しました。そして一番気になるところを見に行きました。
この船には婦人用のトイレを心して作ってあります。
これならば、ほかのところもよいだろうと思いました。
私は戦時用の輸送船にあなたがたをおしこめて、不快な不自由な思いをさせたくなかったのです。」

女性たちの顔から恨みや不満の表情が消え、感謝の表情に変ってきました。
そしてその船が桟橋を離れる時、少佐へのせめての感謝のしるしにと、どこからともなく「蛍の光」が歌われました。歌声は60人ほどの女性たちの声で唱和されたのです。

英国軍の兵隊達はいついつまでもその船の影が見えなくなるまで見送っていたそうです。
実は、この英国人少佐の日本人復員女性にたいする対応は、二木可南子さんを通じて見た、日本人女性に対する畏敬の念があったからだといわれています。

たったひとりの女性の毅然とした姿が、勝者である英国人将校の心まで変え、多くの日本人女性を救ったのです。

 
 
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