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会報 第2200回例会 2015年09月02日

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第2200回例会 2015年 9月 2日(水) 例会場:青葉台フォーラム 時間:12:30~13:30
会長 露木健造 幹事 小泉豊 会報委員長 清水保代
司会 飯田正男 SAA 斉唱 『君が代』/『奉仕の理想』 点鐘 露木健造 会長
卓話
東北復興視察ツアーと久慈RCメイクアップ:鶴岡武 会員

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誕生祝 ビジター ゲスト
無し 實方京一郎 会員
(東京中央RC)
國部保 様
(パナホーム株式会社 神奈川支社)

お祝い・表彰・挨拶等

ゲスト及びビジター紹介

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会員誕生祝

該当者無し


パートナー誕生祝

該当者無し


会長報告

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会長:露木健造

2015年8月31日読売新聞より転記

9月1日「防災の日」特集

知っておこう 防災の今

なんで9月1日が防災の日なの

1923年9月1日に起きた関東大地震や、戦後最大の被害を被った1959年9月26日の伊勢湾台風が契機となって、9月1日を含む一週間を防災週間としています。台風や津波、地震などの災害について認識を深め、改めて注意を喚起することが目的です。

また、各関係機関も防災への意識を高めるための行事や訓練などを行っています。
(消防機関は防災はもとより減災に重点をおいて訓練)

自分流の防災を考えよう。

9月1日は、防災の日。改めて考える日です。
今回、危機管理アドバイザーの国崎 信江氏(女性)に本当に役立つ実践的な防災とは何かを伺いました。そこで見えてきたのは、安全を意識した防災は一人ひとり異なるものです。
防災の常識を疑おう。

  • 今の時代の防災とは

    防災の情報は世の中に溢れていますが、それらの知識は今の時代に合っていないことが多々あるのです。これまで住まいの防災と言えば戸建のことでしたが、今はマンションに住んでいる人も少なくありません。戸建とマンションでは、防災対策も異なります。
    昔の木造住宅(障子、襖)のように天然素材が多く使われていた時代とは異なり、今は建材に科学製品(不燃材の壁紙・カーペット・カーテン等)が使われています。さらに、パソコン、テレビなどの機器類が置かれ、火災が発生した場合、人体に有毒なガスが発生しやすい環境にあります。対策はとにかく煙が充満する前に外へ(ベランダ等)逃げることが先決です。(有毒の煙を吸い込むと即死です)。現代の災害の特性を見極めつつ、どうすれば良いか、しっかり考えておくことが大切です。

  • 身近なものを防災ツールに

    防災用品を充実させることに越したことはことはありませんが、身近にあるもので災害時に活用できるものがあります。たとえば、花粉症用の眼鏡は、小さな花粉をブロックする特性から、震災時にはゴーグルとして活用できます。震災時にはガラス片が混ざったような細かい粉じんが発生するので、そんな粉塵から目を保護してくれるのです。
     防災用品の必需品して挙げられる笛も、あるに越したことはないのですが、いつも持ち歩いている人は多くないかもしれません。そこで私が推奨しているのは、口笛や指笛の練習です。
    たとえば、私はよく学校や幼稚園などで防災の演習を行いますが、子供たちに口笛や指笛の練習を教えると、子供たちは目をキラキラさせながら練習してくれます。道具ありきではなく、自分の体の機能を使って困難を乗り越える方法を伝えています。
    一方大人には、スマトフォンを防災ツールとして活用する方法を伝えています。
    着信音は笛の代わりになりますし、地図やGPSで避難所の位置を確認できる他、ライトを懐中電灯として使うこともできます。発想一つで、普段使っているものが頼れる防災用品になります。

十人十色の防災方法

  • 防災にマニアルはない

    防災用品には、第三者がすぐに調達できないものが、その人にとって本当に必要なものだったりします。乳幼児ならオムツやミルク、高齢者の家族がいれば老眼鏡などです。
    防災用品選びに迷ったら[海外旅行になにを持っていくか」の視点で考えてみましょう。
    日本なら「コンビニで買えばいいや」ですむもの、海外ではすぐに手に入らないため、無いと困るものは必ず持っていくと思います。それこそが災害時にも必要なものです。
    そこに、断水や停電を想定したものをたせば、あなたにピッタリの防災用品が見えてきます。
    住まいに関しても、一つとして同じ環境はないので、その家にあった防災が重要です。
    安全な家とは、凶器となるモノが 少ない家です。地震で家が揺れたとき、固定されてない家具は凶器になりますから、普段から不要ななモノを整理し、必要な家具を固定することをおすすめします(固定金具は複数使用することで震度6強にも耐える)。
    モノが少ないと動線も広くとれるから暮らしやすくなります。
    どうしても置きたいモノがあるときはしっかりと「防災の視点」を取り入れて対策する。
    たとえば写真立てなら、ガラスや木のフレームではなく、万が一飛んできても安全な素材する。時計は重量のある壁掛け時計ではなく、見た目もスマートな壁に貼り付けるタイプにする。危ないものを排除するだけでなく、インテリアと安全を両立させてストレスにならない防災を考えてみましょう。
    防災対策を一度に実施しようとするとお財布にも負担がかかりますから、できることから始めると良いと思います。

  • 普段から災害を意識する

    大災害時にこうすれば助かるという絶対のルールはありませんが、私が思う助かる人は「日常で起きる小さな地震でも動ける人」です。というのも、普段から揺れたら行動する、いう意識がなければ、大きな地震きても身体が反応できません。エレベーターに乗っているとき、地震が起きたら、どのくらい閉じ込められるか、場所によりますが、平常時なら2~3時間で救助されるとしても、かなりの数のエレベーターを同時に点検する必要の災害時は,半日から最悪数日かかるかもしれません。(エレベーター搭乗時に揺れを感じたら即、直近の階ボタンを押す)そうした状況を考え普段から必要な物を持ち歩いている人は助かる可能性が高いと思いませんか。

  • 集合場所は具体的に

    家族みんなで震災に備えるなら、集合場所も具体的に設定しておきましょう。
    「○ ○小学校」だけではなく「体育館のバスケットゴールの下に9時と15時からそれぞれ20分」ときめるのも一案です。大人はともかく、子供や高齢者にとって待つというのは体に負担がかかりますし、ご飯やトイレをなどを我慢してしまうかもしれません。このように、待ち合わせ一つにしても十分に話をすることで負担は減らせるのです。

  • 防災は難しくない

    ここまで色々なお話をさせていただきましたが、防災に正解はなく、その時の状況で最善の行動をとることを心がけてください。私は常に生きてる間には大きな地震が起きると考えています。しかし、防災は常日頃の備えの心構えであり、特別なこととして捉えないようにしています。子供たちにも日ごろの会話の中にさりげなく「今、地震が起きたらどうする?」と質問し、その答えを否定することなく、考える力を育ててきました。防災は[家族を想う気持ちの表れ」であり、そうすればするほど大切な家族の安全につながっていると思えば、防災に対するイメージも変わるかもしれません。
    ストレスを感じることなく、家族みんなで取り組みましょう。


関東大震災は何故被害が大きかったか

関東大震災は、大正12(1923)年9月1日、午前11時58分に起こりました。
マグニチュードは7.9です。まさに巨大地震です。

震源地は、相模湾北西沖80kmで、人口密集地の東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城から静岡県東部までの広い範囲に甚大な被害をもたらしました。被害規模は、日本災害史上最大ものです。
公式に記録されている関東大震災の死者・行方不明者は、14万2,800人です。
ところが、それよりもはるかに強い地震だった東日本大震災のマグニチュードは9.0です。死者、行方不明者は合わせて2万208人です。

関東は人口密度が高かったから死者行方不明者が多かったのでしょうか。
その東京で起きた地震を見てみます。
関東での大型地震は、元禄地震(1703)、天明地震(1782)、安政江戸地震(1855)、関東大震災(1923)で、だいたい70〜80年に一回の割合で、巨大地震が起きています。

地震の被害は、
元禄地震  死者     約1万名
天明地震  死者       少数
安政地震  死者    7,444名
関東大震災 死者 14万2,800名 です。

関東大震災は、当時の家屋が木造であったために火災が広がったためとも言われますが、元禄、天明、安政の頃だって、江戸の家屋は木造です。
人口が違うという人もいるかもしれません。
江戸時代の江戸の人口は、諸説ありますが、おおむね200万人から250万人であったといわれています。
手元に大正9年の東京市の人口の資料があるのですが、それよると、当時の東京市の人口は、217万3,201人です。江戸時代と大差ありません。

にも関わらず、なぜ関東大震災だけが元禄、天明、安政の頃の地震をはるかに上回る被害になったのでしょうか。

実は、関東大震災においては、震災そのもの、あるいは震災時の建物倒壊や火災よって亡くなったり行方不明になった人は、やはり、1万名程度であったろうといわれているのです。

つまり、14万人の死者・行方不明者のうち、なんと13万人が、震災そのものではなく、別な理由でお亡くなりになっているのです。では、その理由とは何でしょう。
答えは「放火」です。

関東大震災は、なるほどお昼どきに起こりました。
そのため、あちこちのご家庭の炊事の時間が直撃されました。
当時は電機炊飯ジャーなんてありませんから、食事の仕度も毎回かまどで火を焚いていす。
ですが、それによって起きた火災は確認されいます。たったの136件なのです。

もちろん、当時能登半島付近にいた台風の余波による強風はありました。
そのため失火した火が、折からの強風にあおられて、火災旋風を引き起こしながらいっきに広がったとされています。しかし震災直後の火災は、ほとんどが失火と同時に消火されているのです。

震災によって家屋が倒壊したり、あるいは焼けだされた人たちは、指定避難所に退避していました。
そこは土地が広てく、安全な場所だったからです。
ところがそうした避難所が、地震の翌日になって、地震の翌日になって火災のために丸焼けにされているのです。

たとえば、東京の本所区横網町(現在の墨田区内)にあった本所区被服廠は、2万430坪もある広大な敷地内に4万人近い人が避難していました。
ところがその避難所を火炎柱が襲い、ここだけで3万8千人も亡くなっているのです。

集まっていたのは、もちろん地震による家屋倒壊や火災によって避難を余儀なくされた人達です。
安全だから、被服廠にいたのです。
そこを震災後まもなく消し止めたたはずの火災が襲ったのです。

それだけではありません。
なんと爆弾を使った建物破壊や放火までありました。
誰がそんな不埒なことをしたのでしょうか。そこで当時の新聞を見てみます。

「朝鮮人、隊をなして石油・爆弾使い放火」
(小樽新聞 大正12年9月3日号外第一)

「朝鮮人、各所暴動検束数千名」
(小樽新聞 大正12年9月3日号外第三)

「朝鮮人、横浜~王子放火」
(大阪朝日新聞 大正12年9月3日号外)

「朝鮮人、爆弾・放火・王子横浜で軍隊と衝突」
(荘内新報 大正12年9月3日号外第十八報)

「朝鮮人、屋根から屋根へ放火 婦人凌辱 略奪」
(新愛知 大正12年9月4日号外)

「朝鮮人浦和高崎に放火検挙 爆弾所持し唯氷峠列車爆破自白」
(名古屋新聞 大正12年9月4日号外第二)

「朝鮮人、殺人虐殺凶悪ぶり 進行中の列車に爆弾投げつける」
(福岡日日新聞 大正12年9月4日号外)

「朝鮮人、爆弾・掠奪・鮮人・銃殺」
(小樽新聞 大正12年9月4日号外第一)

「朝鮮人捕縛 爆弾其の他押収。軍隊が治安維持に出動したため、不逞鮮人は爆弾を携帯しながら各地方へ退散、鎮圧鎮静化へ」
(九州日報 大正12年9月4日号外第三)

「朝鮮人暴挙は完全取締を遂行」
(大阪毎日新聞 大正12年9月4日号外第二)

関東の地震なのに、報道は地方のものばかりとなっていますが、これには理由があります。
当時、新聞社は、東京に一局集中していました。この頃の新聞は、活版印刷といって、一文字ずつ文字を手作業で拾って並べて新聞紙の印刷をしていました。
ところが東京にあった新聞社は、活版印刷のための活字ケースが地震で倒れて活字が散乱し、印刷機能が停止してしまっていたのです。さらにこれに加えて、東京日日新聞、報知新聞、都新聞を除く13あった新聞社が、すべて社屋を焼失してしまっていました。

このため、最も早く復旧した東京日日新聞が9月5日付の夕刊を発行するまで、首都の報道機能は、印刷という行程において完全に麻痺してしまっていたのです。
そこで大手新聞社の記者や、地方新聞の東京、横浜などの支局員が、関東大震災の模様を取材し、それを地方にある新聞社に連絡し、それを営業できる地方の新聞社が印刷して、各地での号外となっていたわけです。

当時の新聞記事を見ると、震災後の混乱の中で、在日の不逞朝鮮人たちが連続放火を繰り返したり、略奪、暴行、婦人凌辱等を行い、それらの証拠隠滅のためにさらに放火を繰り返すといった、悪さの限りを尽くしていたことがわかります。
中には、爆弾まで使って放火や略奪、窃盗をしていた者まであり、やむなく陸軍が出動して鎮圧を行っています。

このときの内閣は、山本権兵衛内閣でしたが、震災の翌々日に次の「公式発表」を行っています。
「不逞な朝鮮人については、三々五々群を為して放火を遂行、また未遂の事実があるけれど、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあるので、国民のみなさんは、恐れないでください。」
これが公式発表です。
在日不逞朝鮮人たちによる、略奪や暴行、放火は「事実だった」ということです。

最近では関東大震災において「朝鮮人による凶行はデマであった」という風説が、なぜかまかり通っています。けれどそれがデマでなかった証拠には、「警視庁、不逞鮮人暴動を沈静化」、「不逞ではない朝鮮人保護のため、警視庁は取締りを完全に遂行せよ、との急告通達を出した」(大阪毎日新聞)の報道があります。
実際に警察が暴動の鎮圧に乗り出しているのです。


幹事報告

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幹事:小泉豊

諸事連絡

  • ポールハリスソサエティ入会のお願い(鶴岡会員は既会員)
  • 2016-17年度ロータリー青少年交換学生募集のご案内
    志願者が来たら対応して下さいとのこと。
  • ロータリー財団月間における卓話実施のお願い
    11月のR財団月間に財団に関する卓話を実施して下さい。
    当クラブに地区財団関連委員として鶴岡・武藤・北原委員がいるので卓話をお願いいたします。
  • 箕田ガバナー・一楽ガバナー補佐から公式訪問のお礼が届いております。温かくお迎えいただきありがとうございましたとのことです。
  • クラブより:本日理事会開催されます。

他クラブ例会変更

横浜旭RC

  • 9月23日祝日休会

委員会報告等

雑誌委員会

委員長:大野富生


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親睦活動委員会

委員長:井上幸治


出席報告

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出席委員長:武藤泰典

今回出席状況
在籍会員 出席 MU済 ビジター ゲスト
会員総数 28 21 0 1 1
(内 出席免除会員数) 5 3
ホームクラブ出席率 外部参加者
会員数 出席率 正会員
出席
免除会員
出席
Make-up
会員
ビジター ゲスト
今回 28 80.77 % 18 3 0 1 1
前回補正後 28 88.46 % 18 3 2 0 0
前々回補正後 28 88.89 % 19 3 2 3 0

スマイルレポート

スマイル 21 件

ニコニコ

實方京一郎 会員
(東京中央RC)
はじめまして宜しくお願い致します。そしてバッジを忘れましたのでニコニコします。
露木健造 会長 パナホーム株式会社 神奈川支社 國部 保様ようこそ、入会お待ちしております。鶴岡会員 本日の卓話「震災復興へ~久慈RCの取り組み~」勉強させていただきます。
小泉豊 幹事 パナホーム 國部様ようこそいらっしゃいました。入会お待ちいたしております。鶴岡様 本日卓話よろしくお願いいたします。
秋山光正 会員 國部保様、實方京一郎様 いらっしゃいませ。ゆっくりしていって下さい。
浅井優子 会員 國部様、本日はようこそおいで下さいました。
飯田正男 会員 涼しさも少し休憩、暑さが戻ってきました。果物は、実りの秋ですが、お天気と気温は、いつ秋になるのでしょう。
井藤昭宏 会員 國部様 ようこそおいで下さいました。入会お待ちしております。
井上幸治 会員 パナホーム(株)神奈川支店 國部 保様 本日はようこそ!ごゆっくりくつろいで下さい。
大地哲郎 会員 國部様、ようこそいらっしゃいました。入会をお待ちしています。
大野富生 会員 國部様 ようこそいらっしゃいました。楽しんでいってください。
河原裕典 会員 國部 保様、ようこそおいで下さいました。入会お待ちしております。
齊藤清紀 会員 國部様、ようこそいらっしゃいました。ごゆっくりお過し下さい。
清水裕之 会員 國部支社長様 ようこそいらっしゃいました。ご入会をお待ち申し上げておりますので、何卒よろしくお願い申し上げます。
清水保代 会員 國部 保様 ようこそいらっしゃいました。ご入会お待ちしております。
下中英輝 会員 今年の夏はどこにも行かず、ひきこもりでした。先週お休み申しわけございませんでした。
田中孝 会員 パナホーム(株)國部保様、ようこそいらっしゃいました。世界的な組織 ロータリークラブで共に楽しく活動しましょう。
鶴岡武 会員 見学にこられました國部様 入会をお待ちしております。楽にやりましょう。
舟橋金之介 会員 ・國部保様 ようこそいらっしゃいました。心より入会をお待ち致しております。・鶴岡様、本日の卓話 宜しくお願い致します。
武藤泰典 会員 パナホーム 國部様、ようこそいらっしゃいました。ごゆっくりお過し下さい。入会お待ちしております。
餅田実 会員 パナホーム(株)の國部様ようこそお越し下さいました。よろしくご指導のほどお願いします。
若山誉 会員 パナホーム(株)神奈川支店 國部様 本日はようこそいらっしゃいました。入会をお待ちしております。

卓話

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東北復興視察ツアーと久慈RCメイクアップ

鶴岡武 会員

5月14日から2泊3日の日程での東日本災害の復興視察と現地クラブのメイクアップを報告します。

コース概要は岩手県二戸→久慈市→宮古市→釜石市→遠野市→花巻で、参加者は秋山、小泉、下中、河原、森、鶴岡の6名の会員です。次に久慈RC訪問内容を報告します。
*久慈RC:創立(昭和37年)、会員79名、親クラブ(盛岡RC)、3年前に創立50周年。

このクラブは13年前、久慈市内の太平洋(久慈湾)を一望する丘陵の里山に、環境体験学習「紲の森」(きずな)を創設し、(旧久慈農林学校現東高校実習林を市から借地)里山の暮らしの知恵や文化、そして景観ずくりをなすことから、今おかれている地球環境を考え、地域社会の暮らしの有様を見つめ直す活動の場として維持管理しており、又3・11東日本大震災・鎮魂復興祈念「心の杜」として隣接小山の中腹に鎮魂碑を設置、毎月会員が集まり鐘を鳴らし黙祷をささげている。50周年では沢山の高校生も参加し、災害風化防止を決意したと「岩手日報」に報じられた由。この地で青空のもとテーブルを並べての例会に参加し、弁当昼食、バナー交換、お互いの自己紹介し、例会後半に歓談した。公園は相当広く遊具、畑、果樹園、小山の展望台と市民も利用できる。唯維持に労力を要し年配者には負担が多いと思う。幹事から50周年時のビデオを頂き、今回皆さんに紹介した。

次に旅程概略を報告します。

東日本被災地の復興視察に、最初は自社工場の有る福島県いわき市から始まり、宮城県仙台市、塩釜市、石巻市。岩手県陸前高田市、大船渡市と訪ね、今回同県久慈市、宮古市、釜石市等を見たが何処も復興の遅れが目立っていた。先ず東北新幹線で二戸駅下車後、JRバスに乗車し緑に満ちた山中を一時間以上走り、最初の目的地久慈市に着く。当地も津波の被害を受けたが他地区と比べ、海岸線はかなり復旧していた。先ず前記の久慈RCにメイクアップ時の例会参加の様子は報告した通りです。続いてレンタカーで海岸に向かい、日本一の海岸美を堪能すべく北山崎断崖クルーズで乗船した。最初計画の小型ボートは波が荒く中止だったので、大型クルーズ船に乗り込んだ。羅賀漁港から出港後北上し北山崎でUターンし仰ぎ見る断崖や途中の海食洞などが近くで見え、中でもひらなめ海岸、鵜の巣断崖、明石海岸、ハイペ海岸、コイロベイ海岸等は素晴らしかった。高さ200米の断崖が連なる海岸線を海上から眺め2時間のクルージングは大満足、説明では一億一千年前の層群らしい。船内でカモメ用のパンを買い、船を追ってくる鳥達に投げ与えていたがシャッターチャンスを求めすぎ、指を噛まれてしまった。陸からの展望台も変化に富んだ海岸線が一望でき、秋の紅葉時の写真では真っ青な海とのコントラストは絶景である。帰路連続テレビ小説「あまちゃん」ロケ地を見学してから、海産物市場で適当に仕入し夕食時焼き鳥屋で料理してもらい満腹となる。仕上げに近所のクラブで一休みし、駅前の「ホテルみちのく」に泊まる。計画ではオーナーが久慈RCメンバーの久慈グランドホテルだったが、高校野球予選で満室の為先の木賃宿になった。

翌朝宮古方向に向かうも、二手に分かれ車組と「あまちゃん」の三陸鉄道北リアス線組で出発、暫く車窓を楽しんだのち途中で全員車に移り宮古CCにチェックイン念願のゴルフに専念するも、ガラ空きでスムースなプレーで助かる。岩手は前年の盛岡CCに次ぎ二ケ所目だが、潮風も少なく楽しくプレー出来た。別のレンタカーに乗り替え浄土ヶ浜に向かい、ここでも遊覧船に乗る。海岸線が浄土ヶ浜園地で、全長約220KMに及ぶ三陸復興国立公園の中核に位置し、奥浄土ヶ浜は宮古市を代表する景勝地だ。遊覧船乗り場から浄土ケ島の千畳敷、剣の山、奥浄土ヶ浜等奇岩絶壁海 岸見学後青の洞窟隣の港まで一時間半の快適な遊覧であった。ここも陸路から白い岩肌や浸食や風化を繰り返しできた入江らが展望できた。浄土ヶ浜の名は、約300年前宮古山常安寺七世の霊鏡和尚がこの地を見て、「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから名付けられたといわれている。夕方静かな松林の海岸に一軒だけの宿、「花ホテルはまぎく」にチェックインする。部屋から見た海岸線が美しく、サーヒン等マリーンスポーツも見かけた。夜の宴会はコンパニオンを呼び盛り上がり、矢張り落ち着いて呑み騒ぐのが一番だ。彼女らは宮古市の住人で、ラサ工業KK宮古工場(非鉄精錬所)を聞いたら皆熟知しており、子供の頃からラサ工業の高い煙突(精錬所の排ガス拡散用)を見て育ったとの事、町のシンボルと聞き、地元に貢献しているようだ。

三日目は釜石の海鮮市場に寄り特産の品々を物色した。当地には旧富士製鉄の溶鉱炉があり北海道の室蘭と並び北の二大製鉄所だったが、今は新日鉄となり高炉は無く広大な圧延工場が目立った。238号線を内陸に向かい遠野ふるさと村を散策する。全くの昔の農村が再現されており、沢山のかやぶき屋根の家に馬が同居し、常駐管理人が説明してくれる。田圃も畑もあり、樹木の合間には山野草が茂り、昔ながらの山里の文化や暮らしを知ることが出来た。入口の食堂でバケツ利用のバーベキュウ料理の昼食、生ビールの美味な事、最後は河童木像と写真をとり今回の旅は終了。新花巻駅から帰途についた。


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