横浜緑ロータリークラブ

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第2214回例会 2015年12月16日(水) 例会場:新横浜国際ホテル 4F ブループラム 時間:18:30~21:00
会長 露木健造 幹事 小泉豊 会報委員長 清水保代
司会 飯田正男 SAA 斉唱 『手に手つないで』 点鐘 露木健造 会長
夜間移動例会

クリスマス家族会

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誕生祝 ビジター ゲスト
無し 無し 桐蔭学園IACの皆様
 

お祝い・表彰・挨拶等

ゲスト及びビジター紹介

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ゲスト紹介

桐蔭学園IACの皆様

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会長報告

会長:露木健造

いま世界の人類の生存を支えている小麦の品種は数百種類に及んでいますが、けれどそれらは、ことごとく日本で開発された「農林10号(ノーリン・テン)」の子供たちです。

その「農林10号」を開発したのは、日本人の農学者、稲塚権次郎博士です。

ちなみに稲塚権次郎博士は「農林1号」も開発している。
「農林1号」は、コシヒカリ、ササニシキの親です。

 

小麦のお話

出典(画像含む):http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2843.html

 

いま日本は、小麦の大量輸入国です。
けれどその小麦は、日本で生まれた小麦です。
世界の人類がたった70年で、20億から70億に増えたのも、その小麦が原因です。

そして本来、穀物の種子は国外持出し禁止のものです。
また、昨日の高峰譲吉は、少なくとも生前は、富と名声に恵まれましたが、小麦の稲塚権次郎博士は、叙勲されたとはいえ、一介の研究人として生涯を終えています。
日本人は威張らず、驕らず。
ですが、蹂躙され、踏みつけられてばかりいるということであってはならないと思います。

小麦は、米、トウモロコシと並ぶ世界三大穀物のひとつです。
なかでもいちばん生産量(消費量)が大きいのが小麦です。
パンやパスタが主食となる欧米では、小麦は、国家の食糧自給のための最重要品目です。

小麦を主食とする国では、どこの国でも小麦の生産は国が管理しています。
国民あっての政府だからです。
何よりも自国民の食を最優先するのは、あたりまえのことです。
国が管理し備蓄しなければ、万一の際に国民が飢えるのです。

ですから国内で生産された小麦は、まず自国で消費備蓄する分を政府が優先して確保します。
余った分だけが、輸出にまわされるのです。

日本では、戦前には全国どでもみられた麦畑は、いまではほとんど見かけられなくなっています。
戦前は、小麦は自給率が百パーセントだったのです。
ところがいまでは年間消費量約600万トンの90割を輸入に頼っています。
輸入先は、1位米国、2位カナダ、3位オーストラリアです。

要するに日本は、大東亜戦争の戦勝国から小麦を買っています。
ただし、ここが大事なのですが、我が国が連合国から小麦を買えているのは、彼らの国に余剰生産高があるからです。
凶作となれば我が国に回される小麦はなくなります。
その、日本が輸入している小麦は、実は日本生まれの小麦です。

昭和20年のことです。
戦勝国として日本に乗り込んだGHQは、日本が開発し研究してた農作物の新種の種子を大量に収集して、米本国に送りました。
根こそぎ全部です。全部、米国に持って行きました。

この中心となったのが米国人農学者のS・C・サーモンです。
彼はGHQの農業顧問として来日し、日本で開発された「農林10号」と名付けられた小麦を知りました。
彼は自ら岩手の国立農業試験場に出向いて、収穫前の「農林10号」を視察しています。

そこで彼が見たもの・・・。
それは、これまで世界の誰もが目にしたことのない新種の小麦でした。

当時、世界で生産されていた小麦は、収穫時の高さが120センチくらいある、背の高い小麦でした。
ところが日本で開発された「農林10号」は、背丈が60センチくらいしかありません。
そのくせたわわに稔る実は、米国産の小麦の5倍の収量がありました。

このことは小麦の栽培にあたってとても重要なことです。
背丈が半分ということは、体積の関係で、地面から吸い取る栄養分が背の高い品種の八分の一で済むからです。
背が低い分、葉や茎に要する栄養分が少なくて済むのです。

それまで米国で生産されていた小麦は、背が高く、太く、大きくて、実の少ない小麦でした。
ですから小麦の収量をあげるためには、とにかく密度を濃くして小麦を植えなければなりませんでした。
当時、小麦を、苗から苗までおよそ15センチ間隔で植えたというからすさまじいです。 稔る頃にはものすごい密度になります。

ところがこれをやると農地の栄養分が吸い取られ、またたく間に土地が痩せてしまいます。
このため何年に一度は土地を休ませないといけなくなります。
つまり広大な農地が遊休地になるのです。

一方「農林10号」は、50センチ間隔で植えられます。
しかも背が低く茎と葉が小さいのです。
だから余計な栄養分を地面から吸い取らない。
それでいて背の高い小麦より、はるかにたくさんの実を稔らせるのです。
つまり土地を枯らさず、単位面積あたりの小麦の収穫量は、当時の米国産小麦の5倍もある小麦だったのです。

驚愕した農学者のサーモンは「農林10号」の種子を残らず集めて東京に持ち帰ると、米本国の農業学者たちにこの種子を「ノーリン・テン」の名前で送りました。
このときに種子を受け取ったひとりに、ワシントン州のO・A・フォーゲルがいました。

彼はサーモンから入手した「ノーリン・テン」を栽培し、種子を増やして新型小麦「ゲインズ」という名前で、全米の農家に売りに出しました。
この種子は全米で大当たりし、さらに全米で驚異的な収穫高をあげました。
なんと全米の小麦の収穫高を一気に4倍に膨れ上がらせたのです。

「ゲインズ」の大当たりは、単に収穫量が多かったということだけではありません。
まず、土地を枯れさせない。
しかも背が低くて安定しているから、たわわに穂を稔らせても茎が倒れない。

噂を聞きつけたのが、メキシコで農業研究をしていた米国人農学博士ノーマン・ボーローグでした。
彼はメキシコで栽培する小麦の研究をしていたのですが、そのメキシコは高温多湿で地味が肥えています。
これは小麦の栽培に適する条件となるのですが、その一方でメキシコには、小麦にサビ病という風土病があったのです。

サビ病が発生すると収穫が激減します。
だからその都度メキシコは飢饉に見舞われていたのです。
ボーローグ博士は自らメキシコに出向き、サビ病に強い小麦を研究していました。
そしてようやく病気につよい品種を完成していたのです。

ボーローグ博士が完成した小麦は「背が高くて」、病気に強くて、稔りが多い。
これだけ聞くと完璧な小麦のようですが、稔りが多くて背が高いということは、穂先が重いということです。
このため、麦が収穫前に倒れてしまったのです。

倒れた小麦は、育たず収穫ができません。
結果、ボーローグ博士の開発した新種の小麦は、肝心の収穫高がむしろ減ってしまうという結果を招いていたのです。

困り果てていたボーローグ博士のもとに飛び込んできた情報が「ゲインズ」の大成功でした。
彼はさっそくメキシコに「ゲインズ」を取り寄せると、自らが開発した品種と掛け合わせ、ついに稔りが多くて、背が低くて収穫期に倒れず、土地を痩せさせず、病気に強い理想の小麦を完成しました。
そしてこの功績でボーローグは国連農業機関員となっています。

彼は、国連の農業機関員として、発展途上国各地の農業を視察するとともに、各国から農業研究者をメキシコに呼び寄せて技術指導をしました。
そして彼の指導を受けた者たちに、この新種の麦の種子を持ち帰ることを許可するという制度を開始しました。

ここにひとつ、大切なポイントがあります。
ボーローグ博士は、「制度を新たに開始」したのです。

冒頭に申し上げたように、小麦は大切な国内食材です。
ですからメキシコであってさえ、米国以外への種子の持ち出しは厳禁だったのです。
さらにいうなら、世界の三大穀物といえば「小麦・米・トウモロコシ」であり、国ごとに主食に用いる穀物は異なりますが、それら穀物は、どこの国でも国が厳重に管理していて、種子等の国外持ち出しは厳禁です。
このことは逆にいえばS・C・サーモンが日本から種子を根こそぎ持って行ったということが、いかに非常識な出来事であったか、ということを意味しています。

さて、ボーローグ博士は、メキシコの法律まで改正して、世界にむけて新種の小麦の普及を促進し始めました。
これが昭和40年のことです。
この年から翌年にかけて、インド、パキスタンで、冷害による大凶作が起こり、数千万人が飢えて死亡する事態になりました。

ボーローグ博士は、インドに数万トン単位で、この新種の小麦の種子を送り込みました。
そしてこの種子が稔ると、なんとインドの小麦の収量は、インド全土で2倍になり、パキスタンでも自給自足が可能なレベルにまで食が安定したのです。

この事件をきっかけに、ボーローグ博士の小麦は「奇跡の小麦」と呼ばれるようになりました。
そして世界に普及し、世界の小麦収量を激増させました。

いま世界全体で生産される小麦は年間6億トンです。
ところが農地面積(作付面積)は1960年から変わっていません。
1960年の世界の小麦生産高は2億トンであったことを考えれば、ボーローグ博士の「奇跡の小麦」は、世界の小麦収穫高を3倍に増やしたことになります。
アメリカでは、これを「緑の革命」と学校で教えています。

ちなみに今から2百年ほど前のことですが、英国の経済学者トマス・ロバート・マルサスという人が、「世界の人口はまもなく食糧栽培能力を上回り、人口はそれ以上に増えることはない」とする論文を発表しました。マルサスは、世界の耕地面積と、そこから得られる農作物の収穫量を計算し、世界の人口は20億人が限界であると試算したのです。

実際、第2次世界大戦の直前、世界の人口は20億人をやや上回りました。
第2次世界大戦の発生原因については、いろいろな説がありますが、食料供給高を人口が上回ったとき、まさに対戦が勃発したとみることもできます。
人間は、食料生産高の範囲内でしか生きることができないからです。

ところが「奇跡の小麦」は、世界の食糧事情を劇的に好転させました。
おかげでいまや世界の人口は、二百年前の三倍をゆうに超えています。
小麦の収量が増えた分、世界の人口が増えたのです。
ボーローグ博士は、世界の食糧不足の改善に尽くしたとして1970年に、ノーベル平和賞を受賞しています。

その「奇跡の小麦」がなぜできあがったのかについては、長く謎に包まれたままとなっていました。
それがある日、ボーローグ博士の口から「奇跡の小麦」は、実は日本で生まれた「農林10号(ノーリン・テン)」が親であると語られたのです。

いま世界の人類の生存を支えている小麦の品種は数百種類に及んでいますが、けれどそれらは、ことごとく日本で開発された「農林10号(ノーリン・テン)」の子供たちです。
その「農林10号」を開発したのは、日本人の農学者、稲塚権次郎博士です。
ちなみに稲塚権次郎博士は「農林1号」も開発している。
「農林1号」は、コシヒカリ、ササニシキの親です。

いま、世界で最も多くの小麦を生産しているのは、支那です。世界第一位です。
しかし支那は、もともと世界第一位の生産国だったわけではありません。
戦時中に「農林10号」を開発した稲塚権次郎博士が、北京の華北産業科学研究所に農業指導のために招かれ、小麦の改良と指導を行った結果である。

稲塚博士は、終戦後も国民党政府から「帰らないでくれ」と懇願され、終戦後二年も支那に留まっています。
博士が日本に復員されたのは昭和22年のことです。
おかげで支那全土の小麦収量は3倍になりました。
当時5億だった支那の人口は、いまでは15億になっています。

稲塚博士が支那に招かれたとき、日本が博士を支那に送ったことは、これまた実は普通ならあり得ないことです。
上にも申し上げましたが、自国の主要穀物の種子は、国外持ち出し禁止が大原則だからです。
けれど、支那は貧しい国でした。

猫の額ほどの小さな耕地で、本当に貧しい農家が、食物を作り、できあがった食物は、役人たちが根こそぎ奪っていく。
このため、広大な土地がありながら、広大な農場の経営が育たず、飢えた人ばかりが、それぞれの生き残りをかけて奪い合い、騙し合いをしているのが状態となっている国でした。

誰もが食えないから、奪い合う。
貧しいから、人を騙してでも、自分が飯を得ようとする。
だから戦時中の日本は、大東亜戦争のさなかでありながら、支那に稲塚博士を派遣し、支那で豊富な作物が得られるようにしました。
みんなが安心して食えるようになれば、支那は変わるに違いないと信じたからです。

ところが支那は、小麦の収量が増えると、増えた分だけ人口が増えました。
結果、今も昔も支那は、貧しいままの状態が続いています。
もっともこのように書くと、支那人はいまやお金持ちで、爆買いをしているではないかという人もいそうです。
違います。
殆どの国民が飢えに苦しむ一方で、一部の共産党幹部が、贅沢三昧な暮らしを手に入れているだけです。

もうひとつ、たいせつなことを書いておきたいと思います。
先の大戦では、日本は前半戦においては、まさに破竹の快進撃をしました。
当時の帝国陸海軍は、まさに神に近い強さを持っていた神軍でした。
米英濠仏支、いずれも日本軍に敵う軍隊はなかったのです。
フィリピンを守っていたマッカーサーも、強大な米国陸軍力を誇示しながら、日本陸軍の前に、まるで赤子のように倒されています。

しかもその戦いを行った日本軍は、ハーグ陸戦条約を遵守し、あくまで戦地の民間人が退去するまで、その地への攻撃をしかけず、また攻撃目標も敵の軍事施設だけに限っています。
それでいて勝利を連続させているのです。
まさに当時の日本軍は、世界最強の神軍だったのです。
ところがある日を境に、日本軍はまるでツキが落ちたかのように打つ手打つ手が裏目となり、敗退につぐ敗退となりました。

そこで思うのです。
もしかすると日本の八百万の神々は、未来を見据えていたのではないでしょうか。
もし日本があの戦争に勝つか、あるいは昭和18年の時点で米英仏蘭と講和条約を結んでいたらどうなっていたでしょうか。

おそらく日本は大国のままです。
けれど、米英仏蘭とは、敵対的関係となります。
もちろん欧米諸国の植民地は、そのまま維持されていることでしょう。
つまり、インドもパキスタンも、英国領のままです。

日本にはすでに「農林十号」はあったけれど、三大穀物の種子は輸出禁止品目です。
ということは、昭和40年に起きたインド、パキスタンの凶作時、英国領であった両国に「農林10号」が行き渡ることはありません。
つまり両国では、おそらく億単位の餓死者が出たことでしょう。

結果だけからみると、日本が自主的に戦闘を終わらせ、GHQが日本で開発された「農林10号」を勝手に米本国に持ち帰ったことから、「農林10号」は、米国の小麦収量を劇的に向上させ、さらにメキシコの小麦と掛け合わせることで病気に強い品種となりました。
つまり、「農林10号」は、世界最強の小麦となったのです。

そしてこのことによって世界の人口は三倍強に増加しました。
いまや70億人です。
インド、パキスタンでは、餓死者を最小に止めただけでなく、いまではインドは小麦の輸出国にさえなっています。

一方戦の序盤から中盤にかけて日本が勝利を連続させなければ、その後の東亜諸国の独立はなかったであろうし、世界の人種の平等も確立されてなかったことでしょう。

八百万の神々の御心は、我々凡人には計り知れないものです。
しかしもし未来を知る八百万の神々なら、どう判断し、どう行動したであろうかと思うのです。
日本を最後まで勝たせて世界の飢餓を招くか、それとも日本を敗戦に導いてでも世界の民衆の幸福を図ろうとするか。
おそらく後者であろうと思うのです。

これは、あくまでも私の想像です。
しかし日本で開発された小麦はたしかに世界を飢えから救ったし、世界の人口を三倍以上に増やしたのです。
そしてかつて日本が掲げた人種の平等、植民地支配の終焉という壮大な目的も、いつのまにか達成されています。

その日本人は、バブル崩壊後不況下にあるとはいえ、豊かな食に恵まれた国になっています。
焼け野原となったはずの日本が、終戦直後には世界の最貧国状態だったのに、わずかの間に世界有数の富める国に成長し、おかげで国を守るべき政治家まで「平和ボケ」してしまうくらいの平和と繁栄を手に入れています。

言い換えれば靖国に眠る236万柱の英霊は、神々の意思に添って世界に人種の平等を実現し、世界を飢えから救い、戦後日本の平和と安全と繁栄を実現したのといえるのではないかと思うのです。
そしてそのことを我々日本人が謙虚に学び、英霊への感謝を学ぶとき、日本と世界は、新しい大いなる発展のときを迎えるのではないかと思うのです。

 

幹事報告

幹事:小泉豊

連絡事項

  • 12月23日(水) 休会 祝日のため
  • 12月30日(水) 休会 定款第6条第1節(c)による
  • 1月6日(水) 通常例会『青葉台フォーラム』12:30点鐘
 

委員会報告等

無し

 

出席報告

今回出席状況
  在籍会員 出席 MU済 ビジター ゲスト
会員総数 28 26 0 0 3
(内 出席免除会員数) 5 4
ホームクラブ出席率 外部参加者
  会員数 出席率 正会員
出席
免除会員
出席
Make-up
会員
ビジター ゲスト
今回 28 96.30 % 22 4 0 0 3
前回補正後 28 77.78 % 17 3 1 0 0
前々回補正後 28 88.46 % 20 3 0 1 1
 

 

クリスマス家族会

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